大和郡山城とは現在の奈良県大和郡山市にあった平山城。
豊臣政権の初期には豊臣秀吉の実弟である豊臣秀長が城主となり、大和国・紀伊国・和泉国を合わせて100万石の中心となる居城となった。
江戸時代に入ると郡山藩の藩庁が置かれた。
![]() 郡山城 追手門 | |
別名 | 雁陣之城 |
城郭構造 | 輪郭式平山城 |
天守構造 | 5層6階?(不明・1583年築・非現存) |
築城主 | 郡山衆及び筒井順慶 |
築城年 | 1162年(応保2年) 1580年(天正8年) |
主な改修者 | 筒井順慶 豊臣秀長 増田長盛 |
主な城主 | 筒井氏 豊臣氏 水野氏 柳沢氏 |
廃城年 | 1873年(明治6年) |
遺構 | 石垣 堀 |
指定文化財 | 奈良県指定史跡 |
再建造物 | 追手向櫓 東櫓 追手門 |
地図 |
大和郡山城(雁陣之城)とは










大和郡山城の概略
郡山城の初見は、10世紀後半に郡山衆が雁陣の城を築いたとされるものである。
その立地は秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上にあり、戦国時代には平山城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らによって改修されたという。












17世紀初頭には、時の城主であった増田長盛が改易されたことで一時廃城となったが、その後水野勝成が入封し、徳川幕府よって改修を受けたという。
その後は譜代大名が歴代の城主を務め、柳沢吉里あ入ってからは柳沢氏が明治維新まで居城としたとされている。
雁陣之城
郡山城の原型となったものは、1162年(応保2年)に郡山衆が雁陣の城を築いたのが最初としている。






1300年(正安2年)いは郡山庄が独立したとされており、これは郡山という名称の始まりとなったとされる。
1506年(永正3年)になると、赤沢朝経が大和国に侵攻。
大和国の諸城を攻め落とし、郡山城も数千の兵で包囲したという。
この際に宝来衆、西京衆、生馬衆、郡山衆らが西脇衆と称して籠城し、抗戦したものの圧倒的な兵力差の前に、多くの武将が討死したと伝わっている。
その後、郡山衆は近くの筒井城を本拠とする筒井氏に与したり、越智氏に属したりしていたが、1559年(永禄2年)、松永久秀が大和国に侵攻し、当時の郡山城主であった郡山辰巳は松永方に与して、筒井氏から離反したとされている。
筒井順慶時代

筒井順慶
第八次筒井城の戦いにおいて筒井城が陥落し、松永久秀の手中に落ちると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶方の拠点となった。
そのため1570年(元亀元年3月)から1571年(元亀2年8月)まで、松永久秀、久通父子の攻撃に晒されることになる。








筒井順慶は1579年(天正7年8月)に、居城であった筒井城を拡張すべく多聞山城の石垣を運ばせたが、地形の不利により筒井城を諦めることとなり、信長の「大和一国破城命令」により廃城とし、居城を郡山城へと移すことになった。
1581年(天正9年)より明智光秀が普請目付として着手。
大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆が集められたという。




豊臣政権初期~中期

豊臣秀長
1585年(天正13年)、豊臣秀吉の実弟である豊臣秀長が、大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城へと入った。






秀長は城郭の拡充や城下町の整備を急いだようで、根来寺の大門を移築したり、また石材の乏しい奈良で石垣の石を集めるために、墓石や地蔵といった石仏まで用いることとなった。






1591年(天正19年)、豊臣秀長死去。
秀長の養子であった豊臣秀保も1595年(文禄4年)に急死。


豊臣政権後期

増田長盛
1595年(文禄4年7月)、豊臣秀保の没後、増田長盛が大和国郡山城20万石の所領を与えられることになった。
長盛は郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行い、約48町13間に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され、城郭都市と呼ぶに相応しい様相を呈したとされている。






大阪の陣と郡山城の戦い

『大坂夏の陣図屏風』




筒井定慶は筒井順慶の没後、豊臣秀長に仕えていたが、大和大納言家が断絶した後は、徳川家康についていたという。
筒井家を継いでいた従兄の筒井定次が1608年(慶長13年)に改易となると、家康の計らいもあって筒井家を相続し、郡山城1万石を領することになる。




冬の陣は和議によって終結したものの、すぐにも東西決戦の雰囲気が濃厚となってくる。
その際、豊臣方の使者細川兵助が郡山城に出向き、合力を求めたという。






これにより、豊臣方は郡山城に向けて進軍を開始。
大野治房、箸尾高春、細川兵助ら二千余の兵が出陣したという。
筒井定慶はこれに対抗するために兵を集め、その数は一千余になったとされる。






この動きに怒ったのが、定慶お弟である筒井順斎で、手勢に徹底抗戦を命ずるものの、主力たる定慶の軍勢はおらず、順斎に従う者もなく、止むを得ず自身も興福寺に落ち延びたという。
この時郡山城には僅かな兵が残っていたが、城攻めにより30人ほどが討ち取られ、落城した。






松平氏・本多氏時代
大坂の陣の終結後、水野勝成が三河国より6万石で移封。
荒廃していた城郭の修築を行ったとされる。


その水野氏も、1620年(元和5年8月)には備後福山に転封。
代わりに12万石で入城したのが松平忠明だった。
水野氏の時代には、郡山城の修復は道半ばであり、松平氏もそれを引き継いで復興に取り組んだとされている。




松平氏の後に15万石で入ったのが、本多政勝である。


この本多氏の時期に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分が完成。
城下町も武家屋敷、町屋共に発展し、延宝年間いは人口2万人を超えて、最盛期を現出することになる。
しかし1671年(寛文11年)に本多政勝が死去すると、その家督を巡って「九六騒動」と呼ばれるお家騒動が勃発した。








本多氏はその後数代続くが、本多忠烈の代で御家断絶となる。
柳沢氏時代
1723年(享保8年)に本多忠烈あ8歳で死去すると、1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封された。
柳沢氏が入城して以降、郡山城はしばらく安定していたが、1787年(天明7年)に大飢饉が発生し、城下町で打ち壊しなどの騒動が発生する。
また1858年(安政5年12月1日)には郡山城二ノ丸付近から出火。




柳沢氏は1861年(文久元年)に再建に着手。
しかしその後明治維新となり、1870年(明治3年)、藩は今後城の修理を行わないことを出願したとされる。
そして1873年(明治6年)、郡山城は破却され、廃城となった。


郡山城歴代城主
初代城主:郡山衆
2代城主:筒井順慶
3代城主:豊臣秀長
4代城主:豊臣秀保
5代城主:増田長盛
6代城主:大久保長安
7代城主:山口直友
8代城主:筒井定慶
9代城主:水野勝成
10代城主:松平忠明
11代城主:本多政勝
12代城主:本多政長
13代城主:松平信之
14代城主:本多忠平
15代城主:本多忠常
16代城主:本多忠直
17代城主:本多忠村
18代城主:本多忠烈
19代城主:柳沢吉里
20代城主:柳沢信鴻
21代城主:柳沢保光
22代城主:柳沢保泰
23代城主:柳沢保興
24代城主:柳沢保申
明治以降の郡山城
1881年(明治14年)、二の丸に旧郡山中学校の校舎が建設され、また麒麟曲輪に旧郡山園芸高校が建設され、城郭としての郡山城は大きく姿を変えることになる。


その後百年近く荒廃の一途を辿っていた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日には、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡に認定。
また1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が、市民の寄付などにより復元されている。
本丸
天守の存在


















逆さ地蔵




付近にあったとされる石地蔵などが数多く徴用されて、石垣に組み込まれ、そういった経緯のために城下の人々によって祀られている。
現在でも石垣の石組の間から奥をのぞき込むと、逆さになった状態の地蔵の姿を確認することができる。





こういった地蔵のために、北側の石垣沿いには多くの石地蔵が奉納されている。
また地蔵以外の転用石として、平城京羅城門跡から運ばれた礎石とされているものも存在する。

毘沙門曲輪
現在、柳沢文庫がある一帯。
かつては本丸ニの郭と称されていたが、柳沢氏が入って以降、毘沙門曲輪と改名している。


毘沙門曲輪




現在の城址会館がある一帯。
一庵丸、常盤曲輪とも称されていた。
一庵法印良慶の屋敷があったので、法印曲輪と呼ばれている。
陣甫曲輪
かつては城兵の調練の場として使われていた空き地で、現在は民家が立ち並んでいる。
出陣の際には武者溜まりとしても使用されたという。
玄武曲輪
かつてはは納戸曲輪と呼ばれていた。
柳沢氏が入った後に「玄武曲輪」へ改名している。
硝煙蔵が5棟建ち並び、西側には玄武門が建っていたという。
二ノ丸
二ノ丸屋形
現在、奈良県立郡山高等学校が建っている一帯。
城主の居館があったとされる場所。
藩庁もここにあって、御殿群を形成いていたと考えられる。
新宅曲輪
別名緑曲輪。
本多忠平の時代にはすでにあったと考えられている場所。
新屋敷が建てられたことに関係する名称と思われる。
御厩曲輪
元は新宅曲輪の一部。
松平忠明の時代に別の場所にあった厩を、新宅曲輪の北半分に移し、厩を2棟と馬場を設けたことに由来。
松倉曲輪
二ノ丸屋敷や、新宅で消費される米蔵が建っていた一画を指す。
三ノ丸
柳曲輪
現在、やまと郡山城ホールのある一帯。
一説には筒井氏時代の本丸があったとされるが、1983年(昭和58年)の調査の際には多数の遺物が発見されたものの、本丸があったという証拠を得ることはできなかった。
麒麟曲輪
かつては西の丸と呼称された一帯。
柳沢氏が入って以降に麒麟曲輪い改名されている。
名の由来は柳沢吉保が徳川綱吉から麒麟の書を与えられたことにちなみ、柳沢吉里が命名いたという。
郡山城へのアクセス


郡山城関連画像

五軒屋敷池

鉄御門跡

竹林橋櫓跡

柳澤神社

天守台石垣に残る矢穴

追手門

追手向櫓

東隅櫓

郡山城跡案内絵図