大河ドラマ『麒麟がくる』の登場人物を、信長の野望シリーズ「大志」の武将能力から見てみようのこの企画。
第23回は、織田信長家臣にして、織田家随一の猛将、柴田勝家その人から。
柴田勝家とは
柴田勝家といえば織田家の重臣であり、無骨な性格で知られ、その武勇から鬼柴田、かかれ柴田などとも称された人物である。
本能寺の変で主君・織田信長が明智光秀に討たれて横死すると羽柴秀吉と対立し、賤ケ岳の戦いの敗戦後、越前北ノ庄城にて自害して果てた。
柴田勝家の生年ははっきりとは分かっていないものの、1522年(大永2年)の生まれであるとされている。
その出自もよく分かっていない。




勝家は織田信秀に若い頃から仕え、その信秀が死去し、子の信長が家督を継承した頃にはすでに、織田家の重鎮の一人になっていたといわれる。
信秀の死後、信長の弟である織田信勝に家老として仕えたという。




勝家は信勝を織田家当主にすべく信長の排除を試みるが、稲生の戦いにて信長に敗れ、降伏している。
赦免された勝家は以降、信長を認め、逆に信勝を見限ることになった。






勝家は信勝死後、信長に仕えるようになる。
しかし信勝に与していたこともあってか、しばらくの間信長に重用されることはなかったという。






1570年(元亀元年)には、信長の義弟・浅井長政が離反。
この時勝家は長光寺城に配置され、六角氏と戦っている。
また同年6月の姉川の戦いにも従軍した。
織田勢は姉川にて朝倉・浅井連合軍を破り、その後摂津にて三好三人衆た石山本願寺と戦うことになるが、その隙を狙って朝倉義景や浅井長政が京を目指して進軍。
勝家は信長に進言して急遽軍を返し、朝倉・浅井連合軍と対峙して、いわゆる志賀の陣となった。
1571年(元亀2年)には長島一向一揆鎮圧に従軍。
また同年9月には、比叡山焼き討ちに参加した。
1573年(元亀4年)には、室町幕府将軍・足利義昭と信長は対立し、勝家もこれと戦うことになる。
7月には義昭は槙島城に立て籠もり、その側近であった三淵藤英は二条城に立て籠もって徹底攻勢の構えを見せたものの、勝家は藤英を説得して二条城を開城させている。




その後、勝家は槙島城総攻撃にも参加し、義昭を降伏させた。
これにより室町幕府は滅亡する。
1573年(天正元年8月)の越前朝倉氏を攻めた一乗谷の戦いや、浅井氏を滅ぼした小谷城の戦いにも参加している。
同年9月には、第二次長島一向一揆攻めに従軍。
また1575年(天正3年)には甲斐の武田勝頼との決戦である、長篠の戦いにも参加した。
朝倉義景が滅びた後の越前国は、その後越前一向一揆の蜂起により、織田家はこれを失陥してしまう。
信長はこれを殲滅すべく越前国へと入り、平定。
その後の越前国を、信長は勝家に委ねることになる。





その後勝家は北陸方面軍司令官となって、前田利家、佐々成政、不破光治といった与力らと共に、90年間ほど一揆の国であった加賀国を平定。
これに対し、越後の上杉謙信が加賀国まで進軍。
いわゆる手取川の戦いが勃発し、勝家は惨敗を喫したといわれている。
いったん敗北した勝家であったものの、1578年(天正6年)には謙信が死去。
さらに本願寺と織田家が和睦したことで、北陸方面の織田家の勢いは増し、加賀国を平定して越中国にまで進出した。
それまで織田家筆頭であった佐久間信盛が失脚すると、勝家は丹羽長秀と共に織田家の筆頭家老になる。
その後、越中国では魚津城を巡って上杉勢と戦い、これを落とす。
だがその時、京では本能寺の変が勃発して信長が横死してしまう。
勝家は事を知ると全軍撤退して北ノ庄へと帰り、謀反人である明智光秀を討とうとするが、羽柴秀吉の中国大返しにより、勝家が近江に入った頃にはすでに光秀は討たれた後であった。
その後清州会議を経て、光秀を討った秀吉と勝家の立場が逆転してしまう。




その後、織田家中は重臣達の権力闘争の場となり、勝家は秀吉と対立。
ついには賤ケ岳にて一戦に及び、秀吉の美濃大返しにより勝家は敗れ、1583年(天正11年4月24日)、北ノ庄にて自害したという。
麒麟がくるでの柴田勝家


信長の野望・大志での柴田勝家
統率 | 91 |
武勇 | 93 |
知略 | 81 |
内政 | 65 |
外政 | 68 |
志 | 忠勇無類 |
気質 | 勲功 |
格付 | A |
野心 | 8 |
個性 | 攻城達人 民衆統制 |
戦法 | 鬼柴田 猛攻 |
作戦 | 全軍突撃 |








まとめ












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