春日局とは安土桃山時代から江戸時代前期の女性。
本名は斎藤福。春日局という名称は朝廷から賜った称号である。
江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母として知られており、江戸城大奥の礎を築くと共に、家光を松平信綱や柳生宗矩と支えた鼎の脚の一人とされた人物である。
江戸初期における女性政治家としては随一の存在であり、徳川政権の安定に大いに貢献した。
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生年 | 1579年(天正7年) |
没年 | 1643年(寛永20年9月14日) |
別名 | 斎藤福 |
氏族 | 美濃斎藤氏 |
家紋 | 撫子(なでしこ) |
親 | 父:斎藤利三 母:安(稲葉良通娘) 養父:稲葉重通 |
兄弟 | 利康 利宗 三存 七兵衛 娘(柴田勝全前室) 娘(柴田勝全継室) 春日局(福)(稲葉重通養女、稲葉正成継室) |
夫 | 稲葉正成 |
子 | 正勝 正定 正利 |
春日局(斎藤福)とは








来歴
父・斎藤利三
美濃斎藤氏は美濃国の守護代を務めた名門であったが、斎藤道三による美濃国盗りや織田信長による美濃侵攻を受けて滅亡した。
以降、一門の一人であった斎藤利三は、かつての斎藤家臣であった明智氏に仕えたという。




1579年(天正7年)、春日局は利三の所領であった丹波国の黒井城下館にて誕生した。




しかし1582年(天正10年)、本能寺の変が勃発。
父・利三は主君であった明智光秀に従い、本能寺にて織田信長を討ち果たしたものの、同じ織田家臣であった羽柴秀吉との決戦である山崎の戦いにて敗れ、利三は近江国堅田で捕らえられて処刑されたという。
春日局の兄弟らは落ち武者となって各地を放浪したとされているが、春日局自身は母方の実家である稲葉家に引き取られ、成人するまで美濃国の清水城で過ごしたのではないかと考えられている。
この間に母方の親戚に当たる三条西公国に養育されており、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができたという。


その後、伯父であった稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となっている。








徳川家光の乳母選考
1604年(慶長9年)、春日局は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代の乳母に任命された。










・正成が愛人を作ったと知った春日局が激怒して家を去ったとする説
・勝手に乳母に応募した事に激怒した正成が離縁したという説
・乳母に採用された事を知って「女房のおかげで出世した」といわれるのを恥じて離縁状を出したという説
・福に江戸幕府から直接乳母に召されるという話を正成が受けて、春日局も乳母として幕府に忠勤すれば夫の仕官や立身出世に繋がるのではと考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから離縁したという説
・更にこれらの出来事は全て口実で、正成を家康に仕官させるために正成と福が示し合わせて離縁したとする説




将軍様御局
家光が将軍に就任すると、春日局は将軍様御局として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切るようになった。
その江が1626年(寛永3年)に没すると、家光の側室探しに尽力したという。
また将軍の権威を背景にして、老中をも上回る権力を握ったという。
春日局
1629年(寛永6年)、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、10月には上洛して御所への昇殿を試みたという。








そこで血族であった三条西公国の養女になろうとしたものの、既に他界しており、やむをえずその息子・三条西実条と猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得たという。




春日局は三条西藤原福子として同年の10月10日に、後水尾天皇や中宮和子に拝謁した。
従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜ったという。


その後、1632年(寛永9年7月20日)の再上洛の際には従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わっている。






そして1643年(寛永20年9月14日)、春日局死去。享年64。






春日局(斎藤福)画像
