柿崎景家とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
越後の戦国大名であった、長尾氏(上杉氏)家臣。
柿崎城、猿毛城城主。七手組大将の一人としても知られている。
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生年 | 1513年(永正10年)? |
没年 | 1574年(天正2年11月22日) |
別名 | 通称:弥次郎 |
主君 | 長尾為景⇒長尾晴景⇒上杉謙信 |
氏族 | 柿崎氏 |
家紋 | 九曜 |
親 | 父:柿崎利家 |
妻 | 正室:黒田秀忠娘 |
子 | 祐家 晴家 長尾土佐守家婿? |
柿崎景家とは






来歴
謙信に仕えるまで
1513年(永正10年)、景家は越後の国人であった柿崎利家の子として誕生した。


当初は長尾為景に仕え、その死後は嫡男・長尾晴景に仕えた。
その後、弟である長尾景虎(上杉謙信)との間で家督を巡り、家中分裂の危機となった際に景家は、景虎を支持したという。
功績
謙信の下では先手組300騎の大将として重用されることになる。
1558年(永禄元年)には春日山城の留守居役を務めた。
1561年(永禄4年)の後北条氏攻めの際には先鋒を務めたとされ、八幡原の武田信玄の本陣を攻めたとされる。


一方、斎藤朝信と共に奉行に任命され、上杉領内の諸役免除などの重要な施策に携わっている。
また1570年(元亀元年)に北条氏康と越相同盟を結んだ際には、子の柿崎晴家を人質として小田原に送るなどし、軍事だけでなく、内政や外交においても活躍した。




1574年(天正2年)、病死する。
嫡男であった柿崎祐家は前年の越中攻めにおいて深手を負っていたこともあり、次男の春家が家督を継承した。
柿崎景家の死因






景家は1575年(天正3年12月)に、越中国水島に先手300騎の大将として出陣。
ところがここで、織田信長と内通しているという噂が流れ、これを信じた謙信により死罪に処された、というものである。
















柿崎景家の人物像
・『上杉将士書上』によれば、謙信は『和泉守に分別があれば、越後七郡に敵う者があろうか』と評価していたとされる。
・上杉家中は武辺者が多かったが、その中にあって屈指の戦上手だった。一方で景家の武勲に関しての資料は、一切発見されていないという。
・上杉謙信は生涯独身を貫いたが、若い頃に敵将の娘であった伊勢姫と恋仲になっており、しかしこれを景家が抗議して関係を断たせ、伊勢姫は出家してほどなく没し、以降これが原因で、謙信は妻を娶ることがなかったともいわれている。
・景家死罪の顛末は、景家が不要な馬を売ろうとしたところ、越後の馬は上質である、として織田信長が高値で買い取り、贓品と礼状を景家へと送った。ところが景家はこのことを謙信に報告していなかったため、景家が信長に内通していると疑われ、処刑されたという。
柿崎景家画像
