海北綱親 ~秀吉をして、我が兵法の師であると言わしめた将

海北綱親 ~秀吉をして、我が兵法の師であると言わしめた将

 海北綱親とは戦国時代の武将であり、近江浅井氏の家臣。
 赤尾清綱雨森清貞と共に浅井三将と並び称されたことでも知られている。

海北綱親(かいほう つなちか)
生年1510年(永正7年)?
没年1573年(天正元年)?
主君浅井亮政浅井久政浅井長政
海北友松

海北綱親とは

由羅
由羅
海北綱親といえば、浅井三将の一人だね
そうだよ。浅井氏三代に渡って仕えた重臣だね
イリス
イリス
由羅
由羅
ちなみに……海北って何て読むの?
「かいほう」だよ
イリス
イリス
由羅
由羅
うう、読めないよう……
そう? でも綱親の子孫は絵師として有名だから、意外に知られているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
絵師? 綱血親は戦国武将だったのに?
うん。だから綱親は浅井家臣の武将としてだけでなく、絵師である海北友松の父として、また海北友雪の祖父として知られているかもね
イリス
イリス

知勇兼備の将

 近江浅井氏初代である浅井亮政の代より仕え、その子の浅井久政、孫の浅井長政と、三代に渡って仕えた重臣である。

 軍奉行として活躍し、長政の代で織田信長と争うようになると、攻め寄せる木下秀吉の軍を相手に奮戦し、これを撃退し続けた。
 そのため秀吉より、「綱親こそが我が兵法の師である」 と言わしめたとされる、知勇兼備の武将として知られている。

由羅
由羅
綱親と秀吉って戦ったことがあったんだ
秀吉が小谷城を落としたことは知られているよ。その時、頑強に抵抗したのが綱親だったというわけ
イリス
イリス
由羅
由羅
何となくだけど、秀吉って城攻めが得意なイメージがあるよね。その秀吉にそう言わせたんだから、かなりの武将だったってことかな?
そういうことだと思うよ
イリス
イリス
 しかし1573年(天正元年)の小谷城の戦いにおいて、落城とともに討死したという。

死亡時期

 綱親は小谷城の戦いで戦死したとされている一方で、異説も存在する。

 これより40年以上も前、浅井亮政の代において、亮政が京極家家臣である多賀貞隆を攻略した際に討死したとされており、これは綱親の嫡男が綱親と同じ名である善右衛門を名乗っていたため、混同し誤ったからではないか、と考えられている。

 小谷城の戦い以後の海北氏は、綱親の四男が帰農。

 また五男もしくは三男とされている絵師の海北友松が、海北家の再興を目指したものの秀吉に画才を認められたことで武門を去り、画業に専念した。

由羅
由羅
ここで武士をやめて、絵師の道に進んでいったんだね
 友松は海北派の始祖となり、その子の海北友雪らに受け継がれていくことになる。
海北家は武門としてはお家再興とはならなかったけれど、別の道で大成したのだから、数奇な運命だったと言えるのかもしれないね
イリス
イリス