板垣信方とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏に仕えた人物。
武田信虎、武田信玄の親子二代に渡って仕えた。信虎時代の武田四天王としても知られている。
信玄が家督を継いでからは家臣筆頭となり、諏訪郡代となって信濃侵攻で功を上げるも、村上義清と戦った上田原の戦いおいて戦死した。
生年 1489年(延徳元年)
没年 1548年(天文17年2月14日)
別名 信形
主君 武田信虎⇒武田信玄
親 父:板垣信泰
兄弟 室住虎登
子 信憲 酒依昌光 信廣
女子(板垣信安室)
女子(板垣信奥室)
女子(板垣信寛室)
板垣信方とは












信虎追放と晴信の家督相続
板垣信方は1489年(延徳元年)に、板垣信泰の子(異説あり)として生まれた。
信方は武田信虎に仕え、活躍。
1540年(天文9年)に信虎が行った信濃国の佐久郡侵攻においては、数十の城を落とし、武功を挙げたとされている。
その翌年である1541年(天文10年)には、信虎の嫡子であった武田晴信(信玄)による、父・信虎の駿河国への追放という事件が発生。
この結果、信玄は家督を継承して甲斐国の国主となり、信方は甘利虎泰と共に両職となり、武田家最高職に任じられることになる。
諏訪侵攻
1542年(天文11年)に入ると、信玄は高遠頼継と共に諏訪郡に侵攻。
諏訪頼重を降す。
頼重はその後自害させられたという。
一度は手を結んだ高遠頼継だったが、諏訪家の惣領職を望み、藤沢頼親と共に諏訪郡に侵攻。武田方は上原城を落とされてしまう。
この状況に際し、信玄は信方を先鋒として援軍を派遣。
安国寺の戦いにおいて頼継を破り、更には藤沢頼親を降した。
これにより、1543年(天文12)に信方は諏訪郡代である上原城代に任命され、諏訪支配を担当することになる。
上田原の戦い
1545年(天文14年)になると、武田信玄は高遠城を攻略。
これにより高遠頼継は没落した。
さらに信玄は反旗を翻した藤沢頼親を攻めるも、頼親は信濃国の守護である小笠原長時と共に抵抗。
この時に信方は敵に与する龍ヶ崎城を陥落させ、これにより孤立した頼親は降伏した。
1547年(天文16年)、信玄は信方率いる諏訪衆と共に、佐久郡に侵攻。
志賀城の笠原清繁を包囲すると、関東管領であった上杉憲政は金井秀景に救援軍を率いさせ、進軍させる。
これに対し信玄は、信方と甘利虎泰に迎撃軍を編成させ、これを迎え撃たせたという。
信方は関東管領軍と戦った小田井原の戦いで大勝し、敵将は14~15人、兵3,000を討ち取ったとされている。
これにより志賀城は陥落。武田家は佐久郡を平定した。




1548年(天文17年)には、小県郡へと信玄は出陣。
村上義清を討つためのものでしたが、これまで連戦連勝を重ねてきた武田信玄は、この上田原の戦いにおいて初めて大敗を喫してしまう。
多くの重臣も失い、信方を始め、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門らも討死ている。
この戦いで信方は先陣として出撃し、緒戦で村上勢を破って勝利し、そのまま敵陣深くに突進したという。








この油断を村上勢はつき、反撃。
不意を突かれて板垣勢は混乱し、信方自身は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれ、討死した。
信方が戦死したことで板垣勢が崩れ、その勢いのまま猛攻を開始し、後続の武田勢は総崩れとなったとされている。
















信方死後の板垣家
信方の戦死により、その家督は嫡男であった板垣信憲が継ぐことになった。
しかし信憲は父・信方と違って有能ではなかったようで、また不行跡もたたって諏訪城代を解任。
その後、信玄に成敗されたとも、私怨により本郷八郎左衛門に殺害されたともいわれている。
これにより板垣家は断絶するも、同族の板垣信安が板垣氏再興を信玄に願い出て、許され、その名跡を継ぐことになった。







