石川康長とは安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。
信濃松本藩の第2代藩主でもある。
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生年 | 1554年(天文23年) |
没年 | 1643年(寛永19年12月11日() |
別名 | 三長 数長 通称:玄蕃頭 |
主君 | 徳川家康⇒豊臣秀吉⇒豊臣秀頼→徳川家康⇒秀忠⇒改易 |
氏族 | 石川氏 |
家紋 | 丸に竜胆 |
親 | 父:石川数正 母:内藤義清の娘 |
兄弟 | 康長 康勝 康次 |
妻 | 正室:佐野政綱の姉 |
子 | 女(大久保藤十郎室) |
石川康長とは






来歴
1554年(天文23年)に石川数正の子として誕生。
父・数正同様に、徳川家康に仕えました。
1584年(天正12年)、家康の次男・秀康が大坂に送られることになった際に、本多成重や弟の康勝と共に扈従。
その翌年である1585年(天正13年)には父・数正が徳川より出奔し、豊臣秀吉に臣従するという事件が発生。
これにより康長もまた、父同様に秀吉に仕えることになった。
1592年(文禄元年)の文禄の役において、父・数正の代理として肥前名護屋城に入り、在陣衆として500名を率い、駐屯。
その後、父が死去したことで信濃松本藩の第2代藩主となり、家督を相続する。


父・数正は松本に移封されたのち、松本城の普請や城下町の整備に力を注ぎ、康長もまた父の代から続く松本城の普請をさらに進めた。
しかしその規模は8万石の能力を超えるものであったため、領民は苦労したという。
普請のために木材を伐採し、それでも足りずに民家を取り壊して材木にあて、しかし取り壊したことに対する補償は何も無い有様で、強引を推し進めたことがうかがえる。






1597年(慶長2年)には、豊臣姓を下賜。
同年には従五位下式部大輔に叙任。
1600年(慶長2年)、家康が会津征伐に出発し、康長もそれに従い出陣。
この機に乗じて石田三成が挙兵すると、そのまま家康に与して東軍となった。


家康の嫡子・徳川秀忠が中山道より進軍し、これに従いその道中、西軍であった真田昌幸のへの攻撃に参加。


康長は日根野吉重と共に上田城の支城・冠者ヶ嶽城を攻めたが、大敗を喫したとされている。


結局、関ヶ原の戦いには参加できなかったものの、東軍として参加したために、所領は安堵された。
1613年(慶長18年)、大久保長安事件が発生。
大久保長安と縁戚関係にあった康長は、長安と共謀し知行を隠匿したとされて、連座により二人の弟と共に改易された上で、佐伯藩主毛利高政の預となり、豊後佐伯に流罪に処された。






その後1642年(寛永19年)に、配所にて死去した。享年89。