石川家成とは戦国時代から江戸時代にかけての武将。徳川氏家臣。
徳川家康の母方の従兄であり、石川数正の叔父に当たる人物。
徳川十六神将の一人としても知られている。
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生年 | 1534年(天文3年) |
没年 | 1609年(慶長14年10月19日) |
改名 | 彦五郎(幼名)⇒家成 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 石川氏 |
家紋 | 丸に竜胆 |
親 | 父:石川清兼 母:妙春尼(水野忠政娘、於大の方姉) |
兄弟 | 康正(康政) 一政 家成 酒井正親室 |
妻 | 正室:松平清善娘 |
子 | 康通 成次 大久保忠隣正室 本多康重正室 養子:忠総、成堯 |
石川家成とは








来歴
家成は1534年(天文3年)に石川清兼の三男として三河国に生まれた。




家成は家康が駿河の戦国大名・今川義元の人質であった時から仕えた、譜代家臣である
家康初期に当たる1560年(永禄3年)の丸根砦攻略戦や翌1561年(永禄4年)の鳥羽根城攻略戦、1563年(永禄6年)の三河一向一揆の鎮圧戦、また朝倉・浅井連合軍と戦った姉川の戦いなど多くの合戦に参戦し、西三河旗頭として軍功を挙げて家康に貢献した。
また1563年(永禄6年)に起きた三河一向一揆では家康の家臣らの多くが離反し、一揆側に加担。
家康を窮地に陥れた。






この時、兄で石川家の家督を継いでいた石川康正は離反しており、これにより失脚。
家成は家康の従兄弟であったこともあり、その家督を継承することになる。


桶狭間の戦い以降、横死した今川義元の跡を継いでいた今川氏真は、武田信玄の駿河侵攻を受けて滅亡。
これにより家成は1569年(永禄12年)に、遠江国掛川城主に任命されることになる。
それまで家成が務めてきた西三河旗頭の地位は、甥・数正へと譲られることになった。
1580年(天正8年)、長男・康通に家督を譲り、隠居。
1590年(天正18年)には小田原征伐により、後北条氏が滅亡。
これにより家康は関東に移封され、家成は伊豆梅縄に5000石の隠居料と与えられたとされている。
1607年(慶長12年)、長男・康通は大垣藩初代藩主となっていたが死去。
これにより家成は復帰して大垣藩2代目藩主となるも、すでに高齢であったため、幕政には関与しなかったといわれている。
そして1609年(慶長12年)に死去。享年76。
その家督は外孫で養子の石川忠総が継いだ。




家成は家康無二の忠臣と呼ばれるほどの人物であり、家康からの信任は厚かったとされている。
そのため家成の死後、本来ならば断絶するところを養子という形で存続を許されることになったという。