朝倉天正色葉鏡 本能寺之編 第256話
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すでに紅葉が鮮やかとなった紅葉を愛でつつ、庭園に出て月を肴に一杯やっていたわたしの元に、乙葉がおずおずとやってきたのは三日後のことだった。
「あの、姉様?」
「ん、どうした?」
「隣……いい?」
「遠慮するとは珍しいな」
手招きすれば、そそくさと乙葉がわたしの隣に腰を落ち着ける。
「越中まで行って来たそうだな?」
「うん……。ちょっと、走り回りたくて」
連龍ら能登衆がやってくると、乙葉はそれらを引き連れてその日のうちに越中あたりまで早駆けに行ってしまったのだった。
付き合わされた連龍らは疲労困憊になって戻って来たらしいが、少しは乙葉も元気が出たようなので、ご苦労だった、の一言である。
「ごめんね。何か、姉様に気を遣わせてしまって」
「一乗谷に引きこもるのもいいが、少し飽いていたところだったしな。ついでだ」
「……うん」
「しかし、そんなに勝家が良かったのか?」
単刀直入に聞けば、月明かりでも分かるくらい、乙葉の顔が赤くなる。
こっちが戸惑ってしまうくらいの反応だ。
いつものつんつんはどこへいった、である。
「あのね、ずっとずっと昔なんだけれど」
「どれくらいだ?」
「えっと、治承四年だったはずだから、今からちょうど四百年くらい、前の話」
ほう。
四百年とはまたずいぶん昔である。
「それよりももうちょっと前に、妾は一度死んだの」
「……お前が昔話とは、珍しいな」
いいのか、という意味を込めてそう言えば、構わない、といった風で乙葉は先に続けた。
「下野国那須が妾の死地。妾を討伐したのは三浦義明という武将だった。妾は助けを乞うたけれど、結局許してもらえず、殺されちゃったの。そして気づいたらただの狐になっていて」
唐突な話ではあったが、疑問を差し挟むことなく乙葉の言葉を待ってみる。
三浦義明、という人物にはちょっと心当たりは無かったが、今から四百年前といえば、ちょうど鎌倉幕府創立の頃で、治承・寿永の乱という大規模な内乱が勃発していた時期だろう。
いわゆる源平合戦である。
「妾の妖気はみんな石にされちゃって、どうにもならなくて。途方に暮れていた時に妾を拾ってくれたのが義明だったの」
「……それで?」
「姉様は、九尾の狐って知っている?」
「伝承に残っている妖狐のことだな。確か玉藻前とかそんな名前だったと思うが」
「うん、そう。それが妾」
ほう。
そうなのか。
乙葉が四百年は生きている妖狐というのは知っていたが、実は有名人だったらしい。
玉藻前といえば、平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫となっていた狐の化身だったが、陰陽師に見抜かれて脱走し、どこぞで討伐されたという話のはずだ。
「笑っちゃう話だけど、義明ったら妾が命乞いしたのに殺してしまったことを悔いていたらしくて、それでたまたま見つけた妾を拾ってそのまま育ててしまうんだから、本当、何をやっているんだかって感じ」
乙葉は笑ってそう言ったが、どこか泣きそうでもあった。
「乙葉っていう名前はね、義明がつけたの。これも笑っちゃう。玉藻という名前からもじってね」
もじるって……ああ、なるほど。
「乙というのは十干の第二であるから、第二、という意味もあるからな。そして玉という字も似たような意味があるから、か」
天に二日なく、地に二王なし。
将棋などではそういって、王将を上手が使用し、玉将を下手が使うという。
そして藻と葉。
水中に生えるか、陸上に生えるかの差はあるが、ざっくりといえばまあその程度の差だ。
安直といえば、実に安直な名づけである。
「妾ってばその頃全然妖気も無かったし、人の身に化身することもできなかったから、そのままなされるがままだったんだけど……ね。最初は妾を殺した憎い相手だし、無視してたんだけど」
そのうち情が湧いてしまったらしい。
乙葉らしいといえば、乙葉らしいな。
「義明ってばしわくちゃの爺になるまで長生きして、最後は衣笠城で玉砕しちゃった。妾を置いて」
「それが治承四年のことか」
「うん」
話は見えないが、しかし察するに、その三浦義明という人物が勝家に通じるところがあったのだろう。
「義明は妾を殺してしまったけれど、勝家はその力があったのにしなかった。それに何だか似てるの。……もう、顔も覚えていないっていうのに、そんな風に思うのは変なんだけどね」
乙葉は情けをかけられると、ひどく弱い。
わたしなどに飽きずにくっついてくれているのも、その辺りが無縁というわけでもないだろう。
「だからね、久しぶりにこう……昔を思い出しちゃって。何だか元気がないように見えたかもしれないけれど、もう大丈夫だから。雪葉にもしゃきっとしろって叱られたし」
「雪葉は相変わらず厳しいな」
なるほど。
乙葉が落ち込んでいるように見えたのは、昔のことを思い出してしまっていたからか。
しかし今の話、少し腑に落ちないところもある。
「……あまり詮索する気はないんだが」
「うん、なに?」
「お前は一度、那須で討伐されて命を失ったんだろう? にもかかわらず、こうして存在しているのはどういう絡繰りなんだ?」
厳密には死んでいなかった、ということだろうか。
「あ、妾って転生しちゃうみたいなの。これで四度目、かな?」
そうなのか。
いや、ちょっと待て……。
わたしはこめかみを抑えつつ、考え込んでみる。
自分の存在もなかなかだとは思っていたが、ここにそれに引けを取らないくらい大概なやつもいるじゃないか。
「四度目、だと?」
「一番最初はこの国じゃなくて、大陸にいたの。妲己とか、華陽とか、褒姒とか。そんな名前だったと思うけど、正直今となっては他人のことみたいだけどね」
「…………」
なるほど。
うん、深くは考えないでおこう。
……もしかすると乙葉のやつ、あの鈴鹿よりも年季の入った妖じゃないのだろうか。
そんなのがわたしのもとで妹をやっているなんて、世の中分からないものである。
「昔のこと、か」
わたしがこの世界にやってくる前のこと。
思わず思い出そうとして、しかしやめた。
忘れていた方がいいこともある。
それは乙葉を見ていれば一目瞭然だ。
「あ、あのね、姉様」
「ん」
「妾、姉様のこと知っているの」
「――――」
それはつまり、わたしが本来この世界の者ではない、ということか。
「姉様に内緒で聞いちゃったの。その、ごめんなさい」
「朱葉に聞いたのか?」
「うん……」
なるほど。
となると、雪葉も知っているな。この調子だと。
「別に謝る必要はない。あの朱葉が洩らしたのなら、必要だと思ったからだろう。わたしも黙っていて悪かった」
話さなかったのは、うまく説明できる自信が無かったからだ。
それに今となってはもうどうでもいい、過去のことでもある。
「ううんっ! それでね、朱葉が凄く姉様のことを心配しているの」
「三歳児に心配される覚えはないぞ?」
「でも、妾も心配。雪葉だって同じ」
……わたしの身体の不調のことを言っているのだろう。
わたし自身、色々考えつつも、考えない様にしていたことだ。
「絶対、何とかするから」
「そうか」
多くは語らない。
お互いに。
雪葉なども知っているのだろうに、何も言いはしない。
しないが、恐らく乙葉と同じ気持ちでいてくれているのだろう。
「なら、期待しようか」