朝倉天正色葉鏡 天正政変編 第232話
/色葉
難攻不落。
そう呼ばれる城は、この戦国にあって事欠かない。
例えば岐阜城。
かつては稲葉山城と呼ばれたそれは、織田信長を経て現在は織田信忠の居城となっている。
しかし信長が安土城を失ったこともあり、信忠はこれを信長に返していた。
そのため再び織田家の本拠として扱われるようになったのである。
その岐阜城が信忠によって包囲されたとの知らせが、新府城のわたしの元に届けられたのは二月十九日であった。
「織田信長は十五日に長良川にて信忠勢と決戦に及び、これに敗れて岐阜城に入ったとのことですな」
「奇跡は起きなかったな」
貞宗の報告にわたしは頷いてみせる。
「美濃の情勢は」
「信忠殿は美濃入りをすませると同時に、重要な拠点や街道を速やかに抑え、岐阜の包囲を首尾よく完成させたようです。色葉様のご助言の賜物でしょう」
「奇策を用いるのは信長の十八番だろう? なら信忠はとにかく堅実にいけばいい。この二つは互いに相性が良く、また悪い。奇策を用いる隙を見出すことができれば信長が勝利し、できなければ信忠が勝つのが当然だ」
結局、信長は信忠の包囲網に対して打開策を打ち出せないまま戦闘に及び、そして敗北した。
兵装や地の利で差が無い以上、数の多い方が勝つのが道理である。
今回ばかりは桶狭間の時のようにはいかなかったらしい。
信長は岐阜城に篭ったが、退路など無く後詰も期待できない。周辺諸国にこれを助ける者もいない。
あとは放っておくだけで、信長は自滅するだろう。
「とはいえ、放っておくのはさほど得策でもないか」
謀反を成功させるには、やはり迅速さがものを言う。
合戦自体には勝利したのだから、信忠の優位はほぼ確定されたといってもいい。
しかし信長が未だ健在では、よもやの事態もあり得るからだ。
「信忠はこの後に及んで信長に身を引かせようと考えているのかもしれないが、とっとと討ち取らないと家臣どもに異心を抱く輩が出てくるぞ。ただでさえ織田家は一枚岩とは言い難いからな」
これは史実の本能寺の変の後の織田家が、いい例である。
信長だけでなく信忠まで横死したことで、織田家は空中分解してしまったからだ。
他にも信雄や信孝といった信長の子らもいるにはいたが、秀吉を始めとする曲者揃いの家臣団をまとめられるはずもなかったことは、歴史が教えていることである。
今回、信忠にとって運が良かったのは、秀吉がすでにその家中にいないことであった。
これだけでも家中をまとめやすい。
が、諸刃の剣でもある。
事の次第を知れば、秀吉は好機とばかりに伊勢侵攻を目論むだろう。
伊勢の織田信雄あたりと手を組んで、一気に尾張あたりまで出張って来るかもしれない。
そういう隙も見せないためにも、やはり迅速さは必要不可欠だ。
「状況次第ではあるが、信忠が手こずっているようならば郡上の左近に命じて、援軍と称して岐阜まで押し出させろ。その場合は必ず信長を討ち取れと念をおせ」
対美濃最前線の郡上八幡城には、貞宗の家臣である島左近が詰めており、越前からの増援も加えてすでに臨戦態勢が整っている。
「……美濃を侵してよろしいので?」
「信忠とは協力関係だ。むしろ朝倉の存在を誇示して、日和見を決め込んでいる他の諸将の帰趨をはっきりさせた方がいい。それにここで貸しを作っておけば、のちのち影響力を残せるからな?」
にやりと笑ってわたしは補足する。
どうせ今回の信忠謀反にわたしも一枚かんでいるのだ。
ならば後々の関係や交渉のためにも、恩の押し売りでもしておいた方が都合がいいというものである。
「それに朝倉家が信忠の支援を表明すれば、秀吉の漁夫の利もある程度は防ぐ効果もあろうからな」
「そこまでお考えでしたか」
「信忠と手を結ぶ以上、秀吉との関係は微妙になってくる。大まかな方針は定めていないし、今は北条のことがあるから曖昧にしておいた方がいいが、一応な」
とにかく今後、状況は大きく動き、変わっていくはずだ。
その流れに乗り遅れるわけにもいかないし、取りこぼしも面白くない。
今こそ千載一遇の好機であるのだから。
「……北条の方はよろしいのですか?」
「ああ。あっちは昌幸に任せてある。今のところ順調だぞ?」
今回、わたしは織田家と北条家の狭間にあって、その両方に対して謀略を駆使していることになる。
織田の方は信忠が持ち掛けてきたからそれに乗ったまでだが、北条の方はわたしが仕掛けたものだ。
そして織田に関しては貞宗に、北条に関しては昌幸を責任者として事に当たらせている。
「……戦わずして勝つ、というのは確かに兵法の妙ではありますが」
「なんだ、孫子か? ちゃんと実践しているぞ?」
「色葉様の今のお顔でおっしゃられては、かの孫子も素直に褒めることはできないのではないかと思いまして」
腹黒が顔に出ていると言いたいらしい。
相変わらず失礼な奴だ。
「素直に褒められないのか」
「しかし素直な感想ではあります」
「つべこべと」
わたしは尻尾と手を振って、貞宗を追い出すことにした。
「さっさと織田の方を片付けてこい。いいか? 今回織田に占領された南信については全て取り戻す。信忠の軍勢は既に退いているのだから、晴景様に要請して空の城を接収していけ」
これに関しては、すでに信忠との間で話がついていることでもある。
「……木曾については如何されるおつもりです?」
「あぁ、あれか」
今回、木曾義昌が織田方に通じたことで、本格的な甲州征伐が開始された。
わたしとしては裏切りを許すつもりはなく、当初の予定では織田勢を駆逐した後、木曾は蹂躙してその一族郎党は全て処刑するつもりだったのである。
これは同じく裏切った穴山梅雪に対してもそのつもりだった。
「信忠や、家康の面子もあるからな。手は出せんだろう。それにわたし自身が裏切られたわけでもない」
「では、木曾義昌はお許しになると」
「いや?」
あり得ないだろ、とわたしは貞宗を見返した。
「いくつかの条件が整えば、見逃してもいいと言っているだけだ。一つは木曾からの退去に応じること。信忠に仕えるというのであれば、それはそれでいい。しかし本領安堵までは認めない。禄は信忠に新たに貰えというものだ」
「まだ他に条件がある、と?」
「晴景様が許すかどうかだ」
「――――」
わたしの答えに、貞宗は意外な顔になる。
「と、おっしゃいますと?」
「今回の甲州征伐で、晴景様は実家を失っている。当然、その原因になった木曾や穴山らには遺恨もあるだろう。もし晴景様がこれを絶対に許せないと言うのであれば、わたしはそれを全面的に支持する」
「……織田信忠殿らの面子はどうなりますか」
「そんなものを考慮すると思うのか?」
晴景が望むのならば、例え信忠との関係が手切れとなったところで、構うものではない。
織田家は内乱状態となっており、その隙を突いて滅ぼしてやるまでのことである。
もちろん、それは朝倉家にとって最善の方針とは言い難いが、構うものでもなかった。
「では、穴山梅雪も」
「ん、晴景様が望むのならば、家康に命じて首を差し出させる」
迷いないわたしの言に、貞宗は畏まりましたと首肯した。
「殿にはそのようにお伝え致します」
「そうしろ」
後は晴景がどう判断するか、だな。
合理的な判断を望みはするが、感情的な判断であったとしても構わない。
わたしが晴景の立場であったならば、裏切り者は許さないからである。
もっとも晴景は積極的に信忠との関係を主張したくらいだから、そのような判断をする可能性は低いのだろうけど。
「ともあれ、美濃方面に関しては晴景様の裁量に任す。わたしは北条を叩く。貞宗、晴景様を任せたぞ」
「……は」
さて、わたしはわたしで北条どもを片付ける必要があるからな。
織田領が内乱に陥っている今こそが、東に傾注する好機だろう。
少しずつ暖かくなってきて、身体の調子も戻りつつある。
一方で遠征軍には着実に疲労が溜まってきている。
早々に片を付けて、帰国させねば領国の田畑も荒れるというものだ。
そのためにはここで一気に北条を叩き潰す。
ちろりと舌を舐め、わたしはその時を待ったのである。