朝倉天正色葉鏡

第230話 農州大乱

朝倉天正色葉鏡 天正政変編 第230話

     ◇

「何の騒ぎか」

 その夜、岐阜城にあった信長は、物々しい雰囲気に目を覚ますことになる。

「申し上げます!」

 主の問いに応えたのは、いつになく慌てた様子で駆け付けてきた信長の近習・森成利であった。

「蘭丸か。如何した」
「明智様よりご注進なれば!」
「……うむ」

 頷いた信長は居室を出ると、天守の外を眺めやった。
 岐阜城のある稲葉山山頂からは、城下を一望することができる。
 その光景はいつもよりもかがり火が多く、遠目にでも剣呑な様子が見て取れた。

「多数の軍勢がこの岐阜目指して進軍しているとの報を受けた明智様は、ただちに手勢をまとめ、これの対応に当たっておられます」
「敵の急襲か」

 移動するかがり火が光秀率いる軍勢であるのならば、それは加治田城方面に向けて進出しているように見えた。
 加治田城は飛騨へ通じる街道を抑えており、奥美濃にある郡上八幡城にも通じている。
 これらはどちらも朝倉家の支配するところであり、ここからの進軍があったと見るべきだろう。

「それが……」
「どうした? 朝倉の軍勢ではないのか」
「敵ではありませぬ。加治田城よりこの岐阜を目指しているのは……友軍かと」
「友軍、だと?」
「恐らくは信忠様の信濃遠征軍かと思われます」
「なに……!?」

 さすがにその言葉は聞き捨てならず、信長は目を見開いた。

「どういうことか。信忠は諏訪にいるのではなかったのか」
「詳細はわかりかねます。されど明智様はこの一報に、謀反の……可能性があると」
「光秀がそう言ったか」
「……は」
「では、そういうことなのだろう」

 信長はしばし瞑目した後に、迷うことなく即座に行動を開始した。

「山を下りるぞ! 手勢を集めよ! 敵を迎え撃つ!」

     ◇

「しかし信じられませぬ。何かの間違いではありませぬか」

 三千ばかりの兵を揃え、城下の外へと出た明智光秀へとそう言うのは、側近である斎藤利三である。

「そう思いたいが、信忠様のこの動きは尋常ではない」

 光秀が異常に気付いたのは、実は数日前からだった。
 増援として動員をかけていた兵の一部の到着が、期日よりも遅れていたからである。

 特に尾張方面から集めていた兵が集まっていない。
 天候的な問題で足止めされているわけでもないため、気になった光秀は独自に調査していたのである。
 あまりに遅れては信長の勘気に触れると考えたからだ。

 すると由々しき状況が浮かび上がってきた。
 所属不明の友軍が複数、美濃領国を進軍しており、これの一部が美濃と尾張を繋ぐ街道を封鎖して、流れを阻害していたのである。

 これを知ったのが、先日の夕刻のこと。
 胸騒ぎを覚えた光秀は、さらにひとを増やして各方面に派遣し、状況を詳細に調べていたのだったが、夜になってとうとう危うい事態を把握するに至ったのだった。

 すなわち、ここにいるはずの無い信濃遠征軍――織田信忠の手勢三万が、この岐阜を包囲する形で軍を分け、展開しつつあったのである。
 光秀は慌てて動かせる手勢をまとめ、もっとも兵力が多いであろう加治田城方面に対して軍勢を進め、遅ればせながら岐阜城の信長に対して警告を発したという次第であった。

「単純に軍を引き揚げている、というわけではなく、明らかにこの岐阜を攻略するための配置ではないか」
「されど謀反などと……。信忠様はいずれ家督を継ぐ身。ここで反旗を翻す理由が分かりませぬ」
「理由、か」

 その言葉を繰り返して、光秀は渋い顔になった。

「……信忠様は真面目で頭の良いお方。軽挙妄動とも思えぬ。となると……」

 ここしばらく、信長と信忠の間で意見の対立があったことは、光秀も知るところである。
 今回、信長が出陣する運びになっていたことも、その流れの延長にあったからだ。

 信忠の総大将解任。
 これは信忠の面子を大いに潰したことであろう。
 しかしそれだけが理由なのだろうか。

「ともあれ、まずは使者を送って真意を確かめるのが先だ。その間に岐阜の防備を殿に固めてもらう他あるまい」

 光秀が岐阜目指して進軍しつつある信忠の軍勢に対し、使者を差し向けようとした矢先、その信忠自身より使者が送られてきたのである。

「――我が主の要求は、速やかに殿に隠居していただくこと。それ一つのみなれば」

 明智勢の陣中に入った斎藤利堯は単刀直入に要求を告げ、それを聞いた光秀の周囲は騒然となった。

「力づくでの隠居とは穏やかに非ず。如何なる存念の上か」

 光秀の問いに、

「このまま殿の采配に従っていては、織田家が滅ぶと憂慮された我が主の苦渋の決断と心得られよ」

 利堯は朗々と答えたのである。

 これにより織田信忠の謀反が確定した。
 予想の内ではあるが、最悪の事態でもある。

「……総大将の件、遺恨となったのか」
「そのような些事に捉われる我が主ではない」

 利堯の反駁に、それは光秀も納得するところであった。
 あの信忠であれば、もちろん何も思わぬということは無いとはいえ、それでもそれだけに謀反に及ぶとは考えにくい。
 渋面となる光秀に対し、利堯は反対に尋ね聞く。

「明智殿こそ、まことこのままで良いとお考えか?」
「如何なる意味か」
「このまま朝倉家と敵対する道を選べば、ますます織田家は危うくなることは必定。此度の武田家の滅亡は織田家の明日である」
「朝倉が強敵であることは認めるが、さりとて即座にこの織田家が滅ぶなど飛躍ではないのか」

 ここで朝倉の名が出たことに、光秀はおおよその事情を察した。
 やはり信忠は自身の主張を曲げず、初志貫徹する意思を持ち合わせている、ということだろう。

 信忠は最初から信濃遠征に対して反対していた立場である。
 その理由は朝倉家との対立だった。
 近江での合戦を経て、朝倉家を脅威と見做すようになったのだろう。
 信長とて同じ考えてはあったが、その対応が信忠とは逆である。

「明智殿は例の朝倉の姫君を御存じと聞くが」

 利堯の指摘に、光秀はぎくりとなる。

「確かに知り得てはいるが」
「であれば、さほど非現実的な話でなかろうことなど、容易に推察できるのではないか?」
「…………」
「今でこそ織田と北条をもって朝倉に対抗できているが、じきに北条など滅ぼされてしまうであろう。そうなってからでは遅い。この織田家は朝倉家だけでなく、羽柴秀吉という裏切り者も西にあって、脅威である。であれば今は朝倉家と結ぶが上策ではないのか」
「……だとしても、殿は承知されまい」
「然様。だからこその此度の行動である」

 筋道が通ってしまっていることに、光秀は唸った。
 信忠方の意思は固い。

「……では、よしんば殿が家督を譲るを拒絶された場合は如何されるおつもりか」
「知れたこと。一戦に及ぶまで」
「相手は実の父親であるぞ」
「だからこそ、余人には任せられぬと主は仰せである」

 光秀の知るように、信忠は有能で責任感が強い。
 信長との間に意思統一がなされていれば、これほど後継者として相応しい嫡男はいないだろう。
 それが破綻した以上、これは信長にとっての詰みでもあった。

 事ここに至った以上、仮に信長が勝利したとしても、信忠は良くて廃嫡。そして十中八九、死罪となる。
 その場合、次なる後継者は誰になるのか。

 信長には子は十人ほどいるが、まず筆頭に上がるのが次男の織田信雄である。
 が、これは兄・信忠に及ぶべくもない才しか持ち合わせていない。

 先の伊賀侵攻などは信長に無断で行い、大敗したことで信長の怒りを買って、一時は親子の縁を切られかけたほどである。
 これでは家臣がついてこない上に、織田家をまとめられるわけもない。

 次に挙げられるのが三男・織田信孝である。
 三男とはいえ、実は信雄よりも生まれは早い。
 しかし母親の出自の差により、敢えて三男とされていた経緯があった。

 その信孝は庶出の三男、という立場でありながら、信長には目をかけられていたという。家臣の評判もまずまずで、信長が四男以下の自身の子についてさほど顧みることが無かったことからも、この二人のどちらか、という話になってくるだろう。

 しかし立場は三男。
 これが信孝にとっての泣き所で、必ず信雄との間に対立が起きる。
 このような火種を燻らせるような家督継承であっては、織田家の行く末などままならないに決まっている。
 だからこそ、ここで信忠に反旗を翻された時点で、信長にとっては遅かれ早かれ、なのだ。

 唯一織田家が生き残る道があるとすれば、それこそ信忠の要求を呑むことである。
 しかし信長が受け入れるはずもない。

「聡明な明智殿であれば、現状が織田家にとってどれほどの窮地がお分かりいただけるであろう。ならばその傷痕を少しでも広げぬ努力をするのが家臣の務め。明智殿にその気があるのならば、是非ともご同心いただきたい」
「謀反の誘いなどには乗れぬ」
「律儀であられるな」

 利堯は苦笑しつつ、しかし表情を改めて敢えて言いにくいことを指摘した。

「このようなことをこの場で言うは如何かとも思ったが、我らとて余裕があるわけでもござらん。強いて言わせていただく。明智殿は丹波にて母君を失われておられる。それについて思うところは無いのか」
「……過ぎたことゆえ」
「……ふむ。しかし殿のご気性ならば、この先も似たようなことは起きるであろう。そのこと、ゆめゆめ忘れるなかれ」

 それだけを言い残し、一両日の進軍停止を約束して、利堯は場を辞す。
 織田信忠の謀反が明らかになったことに、明智陣中は騒然となったが、光秀は長く苦悩した後に、その場を斎藤利三に任せると、岐阜目指して早馬を走らせたのであった。


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