朝倉天正色葉鏡 天正政変編 第223話
◇
十月二十二日、早朝。
人目を忍んで夜の内に遠照寺に入っているそうで、こちらは遅れての到着となった。
わたしと晴景、そして景忠が随行し、護衛として真柄直隆、隆基父子がわたしに従い、さらに数十の兵卒をもって警護とした。
雪葉一人いれば百人力なのだが、生憎傍にはいない。
わたしの命により、北条領に入って工作中であるからだ。
しかし今回は越後行きの時とは違って、隆基を同行させることを断固拒絶し、わたしの傍に残したのである。
当然、わたしのことを気遣ってだ。
さすがにわたしも受け入れざるを得ず、こうしてもっぱら周辺警護を任せている、というわけである。
「さすがに閑散としているな」
「戦の最中であるからな。離散するのはやむを得まい」
晴景の言う通りではあるものの、だからといって田畑が荒廃するのは面白くはないものだ。
初冬の早朝ということもあって、朝霧の立ち込める中を歩くのは、なかなかに肌寒い。
白い息を吐き出しながら進むと、目的の遠照寺に到着した。
先行していた景忠が受け入れの準備をしており、円滑に事は進んだ。
「見たところ、織田の手勢はいないようだな?」
「単身で来たわけでもあるまいが……」
寺門を潜ったところで、見知らぬ男が待ち構えていた。
明らかに朝倉の関係者ではない。
「何者か」
晴景が前に出て、誰何する。
どうやら晴景も知らない相手らしい。
「織田家臣、斎藤利治と申しまする。此度は我が主の願いをお聞き下さり、まことにありがたき限りなれば」
これが斎藤利治か。
なるほど歴戦の勇将といった風体で、こちらに臆する様子も無い。
これまで晴景との交渉を担っていたのは兄の斎藤利堯であったはずだが、信忠の最側近である利治がここにいるということは、なるほど信忠の本気度が伺えるというものである。
「朝倉晴景である」
「は……。お会いできて恐悦至極。して、そちらの方はもしや」
利治がわたしを見て、さりげなく尋ねてくる。
この容姿であるから例え顔を知らずとも、察しはついたのだろう。
「我が妻、色葉である。挨拶せよ」
「お前が斎藤利治か。近江では手こずらせてくれたものだな?」
開口一番がこれである。
我ながら度し難いものであるが、こういう性情なのでどうしようもない。
「……恐縮です」
「ふん。信忠はいい家臣を持っているようだ」
昨年の近江での一戦では、織田信忠の別動隊が信長本隊と呼応して美濃から侵入したこともあって、こちらも厳しい戦いを強いられることになった。
その時に信忠の副将として活躍したのが、この斎藤利治である。
噂に違わぬ勇戦振りであったと、敵ながらも認めるところだ。
「まさか、かの奥方様にもお越しいただけるとは」
利治が驚くのも無理は無く、事前に何の通告もしなかったからである。
「飛び入りだが参加させてもらおう。異存は?」
「ございませぬ」
「いいだろう。では案内しろ」
どこまでも居丈高に、わたしは顎でしゃくってみせたのだった。
◇
とまあ、寺に入るまでは、わたしの泰然としたいつもの態度を保てたのだが、通された部屋に入ったところで、顔を引きつらせることになってしまった。
思わぬ相手がいたからである。
「あら、あら」
そこに座っていた女は、わたしの顔を見るなり何という僥倖、とばかりに顔を綻ばせたのだった。
「……どうしてお前がここにいる……?」
急に頭痛がして、わたしはこめかみを抑えてしまう。
室内にいたのは二人の男女であったが、内一人は見覚えのある相手だったのだ。
「色葉?」
わたしの珍しい態度に、晴景は首を傾げた。
意外なものでも見るかのような眼差しである。
「見たくもない相手がいる……」
本気でそう思い、顔を背けつつも視線は外せず、半眼で睨みつける。
とんでもなく人相が悪くなるわたしの顔などおかまいなしに、その女――織田鈴鹿は嬉しそうに微笑み、はしゃぐのだ。
「まさしく僥倖とはこのことで言うでしょう。信忠様、無理を言ってついて来た甲斐がありましたわ」
「あ、姉上……?」
鈴鹿の隣に座る若い男も、困惑したような反応をみせている。
……なるほど。
この女を姉と呼ぶ存在となれば、この男が織田信忠なのだろう。
「だから、どうして、お前がいるんだ」
嫌々ながらも私は尋ね聞く。
この女が相手では警戒したところでどうにもならないが、それでも自然、わたしは庇うようにして晴景の前に出ていた。
全くもって望まぬ邂逅ではあるものの、ここに晴景一人を行かせなくて良かったと思う自分もいて、複雑な感情がごちゃ混ぜになる。
「物見遊山、ですわ」
「また、この信濃にか?」
「……? あぁ、なるほど。そんなに心配なさらないで下さいな。あの時とは違いますのよ」
わたしの思うところを悟ったのだろう。
鈴鹿は扇で口元を隠しつつ、にこりとほほ笑む。
天女のような笑みではあるが、それが恐ろしい。
この女は以前、その物見遊山とやらで信濃に赴き、晴景の父親――武田信玄を暗殺している。
晴景にとっては知らぬこととはいえ、その実は親の仇なのだ。
「……姉上。まずは挨拶を致しましょう」
はしゃぐ鈴鹿へと少し窘めるようにして、信忠が言う。
「うむ。色葉よ。まずは座ろうではないか」
こちらを晴景にそう促されて、素直に頷いておくことにする。
じたばたしたところで、この女の前ではほぼ無意味だ。
せめて泰然していることくらいしか、対抗するすべが無い。
ともあれ多少ばたばたしたものの、晴景、そしてわたしは用意されていた席について、織田信忠、そして織田鈴鹿を前に改めて会談することとなった。
「まずはこの席に着いていただけたことを感謝する。私が織田信忠である」
若いが堂々とした態度で、信忠はそう切り出した。
「お初にお目にかかる。俺が朝倉家当主、朝倉晴景である」
対して晴景もまた、同じく引けを取らない態度で応じる。
確か信忠の生まれは弘治年間のはず。
ちなみに弘治年間は、四年間に満たない短い期間に用いられた元号であり、晴景もその間に生まれている。
つまりこの二人はほぼ同い年なのだ。
上杉景勝なども同じ弘治年間の生まれであり、着実に世代交代が進んできている、ということだろう。
「そしてこれなるは我が妻、色葉である」
「ふん」
鈴鹿を見て一発で不機嫌になってしまったわたしは、大人気なくそっぽを向くだけであるが、もの言いたげな晴景の視線に折れて、渋々名乗ってやった。
「朝倉色葉だ」
「……噂は、かねがね」
そんな風に、信忠は応じた。
まあ碌な噂じゃないのだろうけど。
「こちらは我が姉――」
「鈴鹿と申しますわ」
わたしとは対照的に、鈴鹿がとびきりの微笑を拵えて挨拶してくる。
とはいえ天女の顔をした鬼の類であることは、わたしが一番承知しているが。
「我が妻のことは承知しておろう? であれば、同席させることに何ら問題は無いと考えるが如何に?」
どこか自慢げにそんな風に確認を取る晴景に、信忠は難しい顔になりながらも頷いてみせた。
信忠が晴景と交渉しようとしたのは、実に正しい。
わたしと直接交渉した方が早いのは確かだが、わたしの噂を知っている以上、難物であると認識しているはずで、これを避けるのはごく当然の思考だ。
何しろわたし自身、交渉をぶち壊すのではないかと他人事のように思っているくらいである。
とはいえ、こいつは運もいい。
鈴鹿を同席させたことだ。
もちろん狙ったことでは無いのだろうが、わたしの調子がこの女のせいで低調にならざるを得ないのは、紛れもない事実である。
どうしても世の中、苦手な相手はいるからだ。
わたしの場合、それがこの女である。
「では我が姉についても、此度の交渉に関わりあることゆえ、同席となったことを承知していただきたい」
「無論、構わぬ」
晴景は鷹揚に頷く。
当主としての貫禄がついてきたようで、相手が信長ならば分も悪かろうが、信忠ならば十分に渡り合えるようだ。
当初の方針を転換して、わたしは口を閉ざして見守ることにした。
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