朝倉天正色葉鏡 天正政変編 第216話
/色葉
天正九年八月六日。
北条氏直が五万と号する大軍を率いて甲斐に入ると知ったわたしは、それに先んじて信濃小諸城から甲斐へと侵攻を命令。
砥石城の戦いで北条の遠征軍は壊滅的な被害を受けており、今ならば甲斐が手薄であることを突いたものである。
堀江景実を総大将に、甲斐奪還を目指す武田旧臣らを引き連れて、電撃的に新府城を攻めた。
武田の旧臣どもは当然、その地理をよく心得ており、その案内でもって速やかに侵攻。
この時、新府城を守る北条方はわずか五百程度しかおらず、二万の大軍を前にあっけなく全滅し、落城した。
この時、わたしの体調は万全でなく、この戦いには参加できていない。
代わりに雪葉が戦目付として従軍したのだが、あろうことか乙葉よろしく先鋒として切り込み、城兵五百の内、実に五十以上の首を刎ねて、むしろ味方を震え上がらせたという。
わたしの前では見せないが、だいぶ鬱憤が溜まっていたらしい。
原因はわたしの体調不良によるところが大きい。
しかも雪葉が傍を離れている時に倒れてしまったこともあり、責任を感じてしまっていたようだ。
当然、責任などあるはずもない。
雪葉に越後行きを命じたのはわたしだからである。
そういう事情もあって、わたしの代わりに先行して新府城攻めに従軍させたら、では半日で落としてご覧にいれます、なんて恐ろしいことを宣言して行ってしまった。
そしてそれを現実のものにしてしまうのだから、今の雪葉はちょっと怖いのである。
にも関わらずわたしの前ではとんでもなく優しいものだから、その差異が恐ろしい、とのことだった。
ちなみにこれは、同じく従軍していた武藤昌幸の言である。
ともあれこうして新府城を落としたところで、朝倉方は進軍を停止。
これは甲斐国の奪還が、今回の進軍目的ではないからだ。
現在、北条勢約五万がこの甲斐を目指して進軍している。
遅くても今月中には甲斐へと侵入してくるだろう。
今回、新府城を奪い返したのは、これに対抗するためである。
この新府城は甲斐国巨摩郡の北部に位置し、隣国である信濃国の佐久郡や諏訪郡に接している。
これまでわたしの率いる朝倉本隊は佐久郡小諸にあり、夫である晴景率いる朝倉の別動隊は、諏訪郡の更に先の伊那郡高遠にあった。
つまりこの新府城はそのどちらにも通じる街道上にあり、交通の要衝といえる。
敵は大軍であるため、その利点を活かして兵を分け、小諸と高遠を同時に狙ってくる公算が高かった。
わたしの拠る小諸城は後顧に憂いは無いが、高遠城では前面に織田勢三万を押しとどめており、これと挟撃されればさすがにひとたまりもない。
そうでなくとも諏訪郡を侵されれば退路を遮断され、孤立してしまう。
そうなる前にとわたしは兵を進め、新府を奪還し、ここに籠城して北条を迎え撃つ心づもりだったのである。
またこの新府城は西側を釜無川、東側を塩川が流れているためこれを天然の堀として利用できる要害でもあり、また曲輪も多く城の規模は非常に大きく、数万の兵の運用が可能だ。
また新しい城でもあり、武田家の新たな本拠地として築城されただけあって、甲州流築城術の集大成ともいえる城だろう。
これを守る兵力さえあれば、武田信勝もかなりの日数を持ち堪えることができたかもしれない。
わたしは北条勢が迫る前にと、今回の戦で破壊された部分などを修復させ、さらに可能な限り改修を施し、防衛力を底上げさせた上で、ここに絶対の防衛戦を引いたのである。
わたし自身、奪還してから三日後には新府城に入り、直接作業を指示。
長期戦に備えて兵糧の確保にも力を入れた。
本国である越前からの兵站により、常に兵糧が運搬されているものの、なにぶん遠い。天候によっては遅れることもある。
基本的には甲斐や信濃で現地調達し、糸目をつけることなく銭をばらまき、買い付けたのだった。
「ふん。いい城じゃないか」
ようやく歩き回ることができるくらいに回復したわたしは、とにかく城郭の隅から隅まで見て回り、また時には近隣の村にも出向いてこれを慰撫するなどして、視察を兼ねた人気取りも余念無く行った。
今のわたしは立って歩くくらいが精いっぱいで、基本、役立たずである。
ではあるが、この容姿は役に立つ。
とにかく暇をみつけては兵どもを見回ってその士気を高めたり、村を回って朝倉家を売り込んだりと、もはやほとんど現代の――といっても未来の話ではあるが――選挙活動でも行っている気分だった。
これは忙しそうにしている貞宗に、何か手伝わせろと要求したら、ならばそのお顔を活かして人気でも集めてきて下さい、などと言われ、少し膨れつつもやってみたら、これが思わぬ効果があって、何やら複雑な気分を味わう羽目になってしまったのである。
「それがしもそう思います」
今日、わたしにくっついてきたのは、雪葉は当然として、もう一人は昌幸だった。
史実では、昌幸がこの新府の普請に携わったともいわれている。
しかしこの世界では事情が異なるため、関わってはいない。
それでもわたしと同じく城を見て回り、無念そうにそう頷くのだった。
「やはり、悔しいか?」
「それは……もう。この城であれば、北条など目にもの見せてくれたでありましょうに」
「お前なら、やれたかもな」
素直にそう思う。
甲斐武田家はこの新府城の落城をもって、事実上滅亡したが、甲斐に入ってから思わぬ真実を知ることにもなった。
武田家滅亡を決定的にしたと思われていた小山田信茂の離反であるが、どうやらそれは偽りで、この新府城の戦いにおいて表返り、武田武士の意地を見せつけて玉砕したという。
少し、意外だった。
史実では武田勝頼を裏切り、死地に追いやることになる人物だが、ここではそうと見せかけて、そうはならなかったのである。
やはりひとというものは、運命などではなく、ちょっとしたきっかけや要因で、その未来への判断が変わるものなのかもしれない。
「……喉が渇いた」
「! 昌幸様」
「うむ」
少し歩き疲れたわたしがそう洩らすと、即座に雪葉が駆け寄り、昌幸から水筒を受け取って口に含ませてくれる。
夏も終わり、秋に差し掛かるこの時期でも暑い時は暑い。
甲斐国は盆地であるせいか、標高が高い割には意外に暑いのである。
「姫様、今日はもうお戻りを」
「ん……まだ歩けるぞ?」
「無理をされてはいけませんぞ。ここで倒れられては、それこそ士気にも関わります」
「うん……」
昌幸の言う通りではある。
自分で言うのもなんであるが、わたしの影響力というものは、小さくない。
わたしに何かあれば、今の朝倉家ではすぐにも面倒なことになるだろう。
これでは勝頼のことを悪く言えないし、むしろ反面教師にすべきことだ。
「まあ、そのための晴景様なんだが」
晴景も十分、当主としての器はある。
むしろ人徳という点では、わたしなど及びもつかない。
教えられることは教えたし、経験も良い悪いを含めて積んだはず。
本当ならば、とっとと晴景に任せてわたしは一乗谷に引きこもっていたいのだ。
などと思っていたら、雪葉が何やら決心したように口を開いた。
「――姫様、敢えて申し上げます」
「ん」
「この新府城など昌幸様や貞宗様にお任せになって、姫様は一乗谷に戻られ養生なさるべきです」
雪葉はわたしの生活態度に対しては容赦なく文句を言ってくるが、政治や軍事に関してはまず口を挟まない。
それがこうして発言したということは、それほどわたしを見かねてなのだろう。
「たわけ」
わたしは雪葉を軽く小突いてやる。
「今から戻る方が億劫だ」
「ですが」
「……お前の気持ちは嬉しく思う。だがここで放り出す気は無い。それにここで諸将を置いて越前などに帰れば、これまでの苦労がぱあだ。ここにいる昌幸など、機を見て北条に寝返るかもしれんしな?」
「い、色葉様!? 御冗談でもそのようなことをおっしゃられては……!」
慌てる昌幸を見て、わたしはひとの悪い笑みを浮かべてみせた。
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