朝倉天正色葉鏡

第215話 総大将解任

朝倉天正色葉鏡 甲州征伐編 第215話

     /色葉

「むぅ……」

 額に冷たい感触がして、わたしは目を覚ました。
 ぼんやりと視界が広がると、見知った顔がこちらを見下ろしている。

「む……? 雪葉、か……?」
「お目覚めですか、姫様」

 そこには安堵したような表情があって、よく分からなくなる。
 わたしの生活態度を叱ってばかりの雪葉にしては、珍しい顔だったからだ。

「申し訳ありません。大事な時にお側におれず……」
「……?」

 何を謝っているのだろう。
 よくわからん……。

 ぼうっとなった思考が多少なりとも回復するのには、随分時間がかかった。
 単なる寝起きではこうはならない。
 ああ、とようやく思い出す。

「馬上から落ちたんだったか」

 確か城まであと一歩、というところで眩暈に襲われて、そのままひっくり返ったのだ。
 あとのことはよく覚えていない。

「七日もお目を覚まされなかったと聞いています」
「それは、寝すぎだな……。起こしてくれれば良かったのに」
「そうは参りません。姫様はお疲れなのです。できれば無理はして欲しくありません……」

 そうは言うが、さすがに七日は寝坊のし過ぎというものである。
 普段の雪葉ならばとんでもなく怒っているだろうに、今は妙に優しくて調子が狂う。

「む?」

 身体を起こそうとして、全く力が入らないことに気づいた。
 何だこれ、である。

「おい雪葉。身体が動かないんだが」
「お疲れの上に、七日間も何も召し上がっていなかったのです。身体が動かないのも当然です」
「なるほど。腹が減って動けないのか」

 あれほど魂を食べたというのに、まったく意味は無かったらしい。
 以前ならこんなことは無かったんだけどなあ……。

「粥を用意します。少しずつ、内腑の調子を戻して下さい」

 がつんと食べたいところだが、胃が受け付けないのだろう。
 腕も動かないから食べさせてもらわないといけないし、ここは言われるがままでいいか。
 とはいえ情けないものである。

「ちょっと起こせ」

 わたしの言葉に雪葉はそっと腕を回し、慎重に半身を起こすのを手伝ってくれる。
 ……やれやれ、支えもなくてはこの状態すら自力で維持するのが難しいとは。

「……そういえば、戻ってきていたんだな」
「先日、帰還致しました。遅れたことをお詫び申し上げます」
「いや、それはいいんだが。それより重家はどうなった?」
「もちろん承知しました」

 当然とばかりに雪葉は頷く。
 これで新発田重家は朝倉家臣となり、越後に飛び地で朝倉領ができたことになる。

 とはいえ陸上で接しておらず、これをこちらが統括することは難しい。
 結局のところ、大幅に自治を認めることになり、それはまあ、最初から分かっていたことだからいい。

「……重家には新潟津の整備についてはちゃんと話したか?」
「はい」

 重家にとっての生命線は、この新潟の湊である。
 これがしっかりと機能しているのならば、北陸の各湊から交易が可能となり、また援助なりの物資も送ってやることができるからだ。

 逆にこれを失えば孤立無援となり、わたしにもどうにもできなくなる。
 上野国を景勝に譲った以上、これは重家にとって重要なことだ。

「なら、いい。一度、何かしら送ってやるか」
「……姫様」
「ん」
「このような時まで、そのようなことをお考えならずとも良いのです。今はゆっくりとお休みを」

 いや、そうは言うけど、七日も寝てたんなら色々と……。

「……待て。今は何日だ?」

 上野で諸将と会談した後、わたしはすぐにもとんぼ返りして信濃に戻った。
 二十五日には真田郷に入り、翌日には小諸城目指して進んだんだが、その道中で倒れたのだから……すでに八月に入っている計算になる。

「八月三日です」

 七日は眠りっぱなしで、八日目にしてようやく起きたというわけか。
 さすがにこれだけ時がたてば、情勢も変わってくる。
 不覚だったとわたしは舌打ちした。

「何か変化は?」
「…………」
「雪葉」
「……はい。まだ確定情報ではありませんが、北条氏直が五万と号する大軍を率い、甲斐に入るとの噂が流れています」

 やはり動いたか。
 しかし五万とはなかなかの大軍である。
 あれだけ殺してやったというのに、よくもわいてくるものだ。さすがの動員力というべきだろうが、鬱陶しいことこの上ない。

「氏政は激怒しているとのことで、ふざけたことに、姫様の首級を必ずとって帰れと氏直に命じたとか」
「ふん。ならば受けて立つだけだが?」

 小諸城にはおよそ二万の朝倉勢がおり、北信の武田旧臣の勢力を糾合すれば、五千余にはなる。
 深志城にも五千ほどの兵が残っているし、高遠城には約一万の兵がいる。
 全て合わせれば四万。

 とはいえ高遠城では約三万の織田勢と対峙していることもあって、これは動かせない。
 それ以外でとなると、せいぜい三万といったところか。
 数の上では圧倒的不利である。

「ですがまともに戦えば、当方が不利なのでは」
「そうだな」

 それについては素直に認める。
 正面からぶつかれば、朝倉の敗北は必至だろう。
 ならば正面から戦わなければいい。

「三万、いや二万もあれば、凌ぐだけならばやり様もあるし、難しくはない。時間を稼ぎ、その間に北関東の者どもを味方に引き入れて、包囲網を結成する。二万を失い、さらに五万も投入すれば、さすがに北条領も手薄になるだろう。この機を逃すな、とな」

 力攻めが難しいのならば、後方攪乱と遠交近攻に力を入れるのは当然である。
 下野国の宇都宮国綱や、常陸国の佐竹義重といった北条氏と敵対している連中ならば、こちらの話を聞いてくるだろう。

 特に佐竹義重は領内に金山を持ち、その資金力は豊富で、その配下の鉄砲隊には目を見張るものがあるという。
 またつい数ヶ月前まで行われていた御代田合戦を契機に、周辺の諸大名はその傘下に入ったことにより、その勢力は侮れないものがある。

 ――一方で、北条とて同じように考えるだろう。
 朝倉の背後を脅かすべく、織田との連携を強めてくることは予想される。
 そして気になるのは岐阜に残った信長の動きか。

 あの男のことだ。
 虎視眈々と近江奪還を狙っているに違いない。
 それを牽制する意味でも、大坂の秀吉に伊勢あたりを攻めてもらうのがいいだろう。

 もっとも秀吉にしても、どうやら信長が手をまわして四国の長宗我部と敵対してしまっているようだから、迂闊には動けないだろうが。
 ……やれやれ、複雑なことである。

「雪葉」
「はい」
「粥を寄越せ」

 今はわたしが元気にならないとどうにもならない、ということだ。
 それには食べて寝るしかないだろう。

「は、はい。今すぐにお持ちいたします」

 雪葉は慌ててわたしを寝床に寝かしつけると、足早の部屋を出ていった。
 一人残されたわたしは、天井に睨みつつ、嘆息とともに呻いたのである。

「……まったく。わたしの身体はどうしてしまったんだろうな……」

     /

「あのうつけめ」

 美濃岐阜城にあって、織田信長は手にした書状を破り捨て、そう吐き捨てたのである。

「如何なさいましたか」

 慌てて尋ねる明智光秀に、信長は憤慨も露わに答えたのだった。

「朝倉と和睦せよと抜かしてきよったぞ。あの愚息めが」
「……信忠様が、ですか?」

 光秀は裂けた書状を拾い集めると、どうにかその文面を読み取ってみる。
 内容は、織田・朝倉家の和睦に関する意見具申、といった内容だった。
 このまま継戦することの愚と、和睦することに利を列挙し、理路整然とその意義について書かれている。

「あれは出陣前にも同じようなことを言っていた」
「……お叱りを承知で申し上げれば、信忠様の言は必ずしも間違っているとは思いませぬが」
「光秀、貴様もそう思うのか」
「今の朝倉は強うございます。殿も、お分かりのはず」
「ふん。言われるまでもない」

 他ならぬ信長自身が、近江において色葉と相見え、大敗を喫したのである。
 当然、忸怩たる思いはあった。

「信忠様のおっしゃるように、まずは武田家が滅び、朝倉はその支えの一つを失ったのですから、これをひとまず祝着としておくのも悪くはありません。一方で、北条との間で激しくやり合っているのですから、これを横目にして今は力を蓄えるのも一つの手です。北条とて軟弱ではないでしょうから、両者の戦いは消耗戦になります。我らが動くのは、朝倉が弱った後でも遅くはないかと」
「漁夫の利か。小賢しいことを言う」
「されど……」
「まあ聞け、光秀」

 信長は改めて光秀へと視線を向けると、諭すように語り始めた。

「武田が首尾よく滅んだことはいい。そこにのこのことあの女狐が現れたのだ。ここで叩き潰せるのならば、絶対にそうすべきであろう」
「確かに越前の守りは固く、容易に崩せぬとは思いますが……」

 疋壇城の戦いにおいては、あの猛将の柴田勝家ですらこれを抜けなかったのである。
 敦賀方面からの侵攻は、至難を極めるだろう。

「不慣れな地での遠征軍。ならばこれほどの好機はあるまい。それにあの女狐が滅べば、近江奪還など容易いというもの」

 信長の言にも一理あると、光秀は頷く。
 確かにあの色葉姫の朝倉家に対する影響力は大きすぎる。
 当主でこそないものの、それ以上の存在感だ。

 これが滅べば確かに朝倉家は一気に弱体化するだろう。
 かつての朝倉家において、一門の名将であった朝倉宗滴死後、一気にその力が衰えたように。

 しかしそれはこの織田家とて同じなのである。
 そのことを信長自身は分かっているのだろうかと、光秀は時折思うのだが。

「されど、ここまでの書面を寄越された以上、信忠様にもそれなりのお覚悟があってのことかと推察致します。あまりに一方的に切り捨てては、後々の遺恨になるのではと」

 信忠とて長年、信長に付き従っていただけあって、有能な人物である。
 だが親子といえど、当然考え方は違う。
 果断な信長にしてみれば、迂遠に映ることもあるだろう。

「構わん。そのような時は無い」
「は……。ですが」
「信忠を甲州攻めの任から解く。代わりに俺が行く。信忠には帰還させろ」
「いや、それはいましばらく……!」

 さすがの光秀も慌てた。
 総大将の解任ともなれば、さすがにただ事ではない。

「信忠にはこの岐阜の留守居を任す。そのように伝えよ」

 光秀が諫める間もあればこそ、鶴の一声でそれは決定された。

 天正九年八月五日。
 朝倉家、織田家、北条家を巡る情勢は、新たな局面を迎えることになるのである。


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