朝倉天正色葉鏡

第213話 家康の苦難

朝倉天正色葉鏡 甲州征伐編 第213話

     ◇

「たわけがっ!」

 相模小田原城。
 北条家当主・北条氏政は実弟である氏照の死という悲報を耳にして、周囲に怒鳴り散らしていた。
 特にその被害を受けたのが、帰陣していた徳川家康である。

「家康よ! 何故に貴殿は随行しなかったのだ!」
「……氏照殿より撤収を命じられましたゆえ」

 粛々として答える家康であったが、事の展開は家康にとっても思わぬものであった。
 甲州征伐で大いに功を挙げたものの、出る杭は打たれるとなる前に、今回の遠征軍から引き揚げてきたのである。

 ところはその後、北進を続けた北条勢は小諸城にて朝倉勢と遭遇。
 これを撃退しつつ前進し、砥石城を囲んだまでは良かったのであるが、その後朝倉方の反撃にあって壊滅し、氏照も討死したという。

 その被害は甚大で、今回の侵攻軍の大半が消滅したのだ。
 上野箕輪城を攻めていた北条氏邦も、事を知っていったん、その軍勢を下げている。

「何を言うか。あれを見殺しにしたのであろう!」

 氏政の激昂は留まらず、処世のつもりで軍を退いたことが、かえって仇となったことに、頭を抱えたい心境であった。

 どうも武田が絡むと、何事もうまくいかないのはいつものことである。
 首尾よく武田勝頼や信勝を討ち取ったのはいいが、その結果がこれではまるで呪いでも受けたかのような気分だった。

「申し訳ありませぬ。今すぐにでも一軍を率い、氏照殿の仇を討つべき出陣致す所存なれば」
「それには及ばん!」

 苛々としながら声も荒く、氏政は近くに控える嫡男の氏直へと視線を転じる。

「氏直よ、今日よりこの北条の家督を継げ」
「は? ――いや、父上、何を仰せか……?」

 氏直だけでなく、その他の重臣も驚いたように氏政を見返した。

「北条家の当主となった上で、朝倉討伐の総大将として軍を率い、信濃に侵攻せよ。件の狐めの首を取って参れ!」

 史実ならば前年のうちに、氏政は氏直に家督を譲っていたのであるが、この世界では未だ当主は氏政であった。
 これは強大化する織田家と同盟し、氏直と信長の娘との間での婚姻同盟を企図していたためである。

 しかし現状では織田家はその勢力を縮小しており、氏政もそこまでする意図も無かったため、敢えて隠居を急がなかったのだった。
 代わりに氏直の正室として、家康の娘である督姫との婚姻が計画され、氏政は家康を一門衆に迎え入れる腹積もりだったのである。

「ならばこの家康にも出陣のご下命を」
「無用ぞ。貴殿は江戸に戻って蟄居しておれ。氏直と督姫の件も無かったことにする。よいな」
「……は」

 ここは頷くしかなかった。
 下手に反駁すれば、この場で首が飛びかねなかったからである。

 毎度どうしてこうなるのかと思うが、なってしまうものは仕方がない。
 忍従のひとである家康も、こうも人生が谷底ばかりではため息も出るというものだ。

 小田原城を早々に辞した家康は、とにかく江戸に急いだ。
 下手に留まれば、命が危ういと感じたからである。

「織田も北条もこれでは……。わしはどうすれば良かったのか」

 思い悩む家康に、この時は答えが出なかった。
 この時は、であるが。

     ◇

「申し上げます! 大日方様のご奮戦により、小諸城は落城。北条方は降伏。また上野方面に侵攻していた北条勢も退去したとのこと」
「うむ。祝着至極だ!」

 高遠城に届く朗報に、長く続く籠城の疲れも吹き飛んだかのように、晴景は表情を綻ばせた。

「さすがは色葉だ。こうも手早く北条を打ち払うとは」

 上機嫌な晴景に、周囲はほっとしたように安堵する。
 実のところ、色葉がこの高遠城にすぐに駆け付けることなく転進した際には、家臣らは大いに心配したものだった。
 この窮地に残された晴景の心境を慮って、である。

 もっとも晴景や景頼の元には連日のように、色葉から書簡が届いていた。
 筆まめな色葉が、事の詳細を克明に記して送っていたのである。
 砥石城が包囲された際はさすがに途絶え、逆に晴景が心配して駆け付けかねない勢いであったのを、家臣が留めたことは記憶に新しい。

 ともあれ砥石城では色葉の策により、北条勢は壊滅。
 その後上野へと向かい、そして早々に信濃へと戻ってきているはずである。
 晴景から見ても、過酷な環境を色葉はここしばらく続けているのだ。

「色葉に何か書いてやりたいが、俺はどうも文は苦手でな……」

 困ったように晴景がこぼすと、景頼はならば自分がと代筆を引き受ける。
 景頼は普段から姉である色葉との間に文をやり取りしていたため、このようなことには向いていたというわけである。

「されど兄上。この先はどうなりましょうか」
「俺としては織田を打ち払い、甲斐に兵を進めてこれを奪還したいが……」

 攻め手の総大将である織田信忠は存外慎重のようで、戦局は膠着してしまっている。
 色葉としては、この膠着こそ狙い目で、今のうちにあれこれ動いて北条を片付ける算段なのだろうが、晴景としてはもどかしいものである。

「飛騨でも色葉の言に背き、失敗してしまったからな。やはり今はこの城を守ることこそが、肝要だろう」

 ともあれ、事態は徐々に好転してきている。
 ここは色葉の戦略に則って行動することこそが、最善だろう。
 そう思っていた矢先、であった。

 翌日になり、凶報の類が届けられたのである。
 曰く、色葉が倒れたのだという。

「――姉上は信濃に戻られた後、小諸城に向かわれている途中でお倒れになったとのことです」
「して、容体は」
「思わしくないとのことです」

 病の類ではなく、過労であることは疑いようもなかった。

「しばらく安静にしていれば、じきに回復するとのことですが……」
「陣中ではろくに休めんな」

 色葉は出産以来、その力を大きく落としている。
 北陸平定を行っていた時のような、常人離れした体力などはもはや無く、人並み程度のものに収まっていることは、晴景も知っていた。
 それが戦場に出て、これまで通りに無理をするのだから、倒れるのも道理である。

 本来ならば一乗谷に戻し、養生させたかったが、ここで色葉が退去したと知られれば、士気の面で味方に大いに不利に働くだろう。
 敵にとってはこれ幸いと、反攻の機と見るかもしれない。

「小諸城には入れたのだろう?」
「はい。貞宗殿からの報せならば」
「……うむ。貞宗に任せておけば、ひとまずは安心か」

 貞宗は色葉の側近中の側近であり、その信頼は厚い。
 また晴景でも言えぬようなことを、色葉に堂々と諫言することで知られている忠臣だ。
 傲慢で横暴な色葉もこれを聞くのだから、不思議なものである。

「しかしどうしたものか」

 朝倉本隊はすでに小諸まで押し出しているため、諏訪と小県・佐久の間は難所である和田峠が存在しているものの、中山道によって最短距離で連絡されている。
 そのため連携はし易くなったといえるが、肝心の色葉がこの先をどう考えているのかが分からない。

 このまま南進し、甲斐を侵すのか。
 それとも諏訪方面に比重を強めて織田の撃退を図るのか。

 色葉と相談したかったが、倒れたとあればそうもいかないだろう。

「現状に変化が無いようであれば、これを維持するのが最善かと考えますが」
「確かにそうである」

 景頼の言うように、織田方が無理に攻めてこないのであれば、この均衡を崩す必要は無い。
 その間に色葉の回復を待つべきである。

 とはいえ、いつまでも大島城との間で睨み合っているわけにもいかないだろう。
 いずれ、動き出す。

 また北条の動きも気になるところだ。
 大敗したとはいえ、このまま引き下がるはずもない。
 北条氏政は家族想いで知られており、氏照や氏邦、氏規といった有能で知られる弟達との関係は良好で、また愛妻家でもあったという。

 その正室は武田信玄の娘である黄梅院で、信玄の駿河侵攻により両家の関係が手切れになった際、父・氏康によって甲斐に送り返されることになったが、氏政は最後までこれを拒んでいる。
 結果的に黄梅院は甲斐に戻り、永禄十二年に僅か二十七歳で死去。
 後に北条家と武田家の間で和睦が成った際には、即座に妻の遺骨を貰い受けて手厚く葬ったという。

 このような人物であるから、実弟である氏照を失ってそのままということはありえないだろう。

「織田ならばいくらでも防いでみせるが、北条と万が一挟撃されるようなことになれば、危ういか」
「とはいえ小諸に友軍がいる以上、これと連絡を密にすることで、最悪の事態は防げるかと思います」
「その通りだ」

 とにかく先んじて情報を得ることで、対応の幅は広がる。
 情報収集の大切さは常日頃から色葉に言われていることであり、晴景もそれを疎かにするつもりはなかった。

 そんな折にである。
 思わぬことが起きたのだった。

 その夜、晴景の元に織田家より――正確には織田信忠より、密使が訪れたのである。


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