朝倉天正色葉鏡

第212話 和睦を思いて

朝倉天正色葉鏡 甲州征伐編 第212話

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 やや時を遡り、天正九年七月十八日。
 信濃大島城の織田信忠の元に、早くも北条氏照討死の報がもたらされていた。

「砥石城にて北条方は壊滅し、それはもう酷い有様であったとか」

 そう報告するのは、信忠の家臣である斎藤利堯。
 かつて美濃を奪い、織田信長の舅となった斎藤道三の子の一人である。

 普段は美濃加治田城を預かり、これに留まることが多かったが、実弟で、信忠側近である斎藤利治が静養中のため従軍できず、代わって信忠に従って信濃入りを果たしていたのだった。

「二万もの兵が、か……」

 報告によれば朝倉方は一万五千もの首をとり、小諸城に逃げ帰ることができたのは僅か一千ほどであったという。

「戦場を見慣れている者でさえ、あれは地獄であったと」
「…………」

 これを指揮し、ここまで情け容赦無く徹底的に相手を滅ぼしたのは、朝倉色葉であるという。

 朝倉家の援軍が深志城に入って久しく、高遠城に増援に来るものとばかり考えて迂闊な侵攻ができずにいた信忠であったが、まるでその裏をかくかのようにして小県に進軍し、佐久へと兵を進めていた北条勢と合戦に及び、これを殲滅したのだ。

「仮にも当主であり、夫である朝倉晴景を捨て置いて北条の撃滅を狙うなど、まことに恐ろしき思考の持ち主ですな」

 恐れ入ったようにそう感想を漏らすのは、信忠の補佐を命じられている河尻秀隆である。

「それで、その後の朝倉の動きは?」
「はっきりとは分かりませぬが、佐久方面に向けて侵攻する気配これあり。恐らく小諸城を狙っているものと思われます」

 利堯の言葉に、信忠は唸る。

「小諸城はもつのか?」
「北条は新府には僅かばかりの兵を残して、全力で北上しましたからな。それが壊滅した以上、現状でこれを守り通すことは叶わぬでしょう」

 秀隆の言うように、新府城を落とした北条方は高遠城に向かわず、佐久郡へと侵攻し、独自にその支配域の拡大を目指したことは、すでに信忠も承知していた。

 こちらが足止めされている間に信濃を侵食されるのは面白くなかったが、さりとてここまでの大敗を喫しているようでは、先走った罰だと揶揄することもできないだろう。
 何しろ事はこちらの戦局にも影響してくるからである。

「しかも先の敗北により、朝倉勢の苛烈さが伝わったことで、城兵の士気はすこぶる低下しているとか」

 さもありなん、と信忠は思う。
 あの朝倉の姫は、敵に一切の容赦をしない。

 信長も言っていたが、邪魔者は色葉にとって踏み潰す対象でしかないのだろう。
 あれほどの城下町を誇った安土でさえ、何のためらいも無く灰燼に帰してみせたのだから。

 それを今回、再び確認することになってしまった信忠は、ここでまた思い悩むことになったのである。

「我らは、あれに勝てるのか」
「何を仰せられる。朝倉如き、それがしが屠ってみせましょう。このような所まで出張ってきたことを、後悔させてくれん」

 強気な秀隆の言も、信忠の心を奮い立たせることはできなかった。
 ここまでは快進撃を続け、一気に信濃を突破できるかという勢いであったが、高遠城に行き着いてからは完全に膠着状態が続いてしまっている。

 あそこを守る諏訪衆は元より、援軍に現れた朝倉晴景が侮れない。
 当主自らの後詰に城内の士気は高く、また補給も順調に為されているようで、今のところ落城の気配はまるでないのである。

「ここは一気に高遠城を抜き、敵の士気を挫くのですぞ。大将の晴景めの首級でもあげようものなら、朝倉など滅びたも同じこと」
「力攻めをせよと?」

 尋ねるまでもなく、それしか方法が無いことは分かっていた。
 敵は高遠城をただ守るだけではなくその改修も進めており、周辺の防御を厳しくしている。
 このままではどんどん攻めにくくなっていく。

「兵が足りぬことは無いが、しかし被害は甚大になるだろう。これでもし、朝倉の本隊が駆け付ければ確実にこちらが敗れる。それでは消耗戦になるぞ」
「……とはいえ、このまま時をかければ殿の勘気を被りますぞ」

 控え目にそう言うのは、毛利秀頼。
 秀頼はかつて尾張守護を務めた斯波義統の遺児である。

「で、あろうが……。みな、一つ図りたいことがある」
「何なりと」

 神妙な顔つきの信忠へと、周囲は顔を見合わせつつ、秀隆が代表してそれに応えた。

「朝倉の姫は恐ろしき者と聞くが、朝倉晴景は話の分かる人物と聞く。また、件の狐姫に対しても大きな影響力を持っているとか」

 色葉が傲慢で横暴で無慈悲で悪辣な思考の持ち主で、この織田家を翻弄し苦境に追い込みつつある存在であることは、もはや周知の事実である。

 しかしそんな色葉であっても夫婦仲は良いとされ、意外なことに晴景の前ではでしゃばらず、その言の大半を認めているという。
 これが朝倉家の双頭政治がうまくいっている所以だ。
 基本、色葉の方が一歩引くのである。

「和睦交渉をするならば、今が機ではないか」

 信忠は元より今回の甲州征伐には反対であった。
 武田家を滅ぼすこと自体はいい。
 しかしそれをすれば、必ず朝倉家が出てくる。
 その朝倉と敵対することを、恐れたのだ。

 出陣前、信忠は自身の思うところを述べて出兵に反対したが、聞き入られることはなく、逆に総大将に任命されてしまった。
 戦は恐れぬが、とにかく朝倉家は不気味で仕方が無い。
 武田家の滅亡すら利用してのけ、自身を大きくし、その威をあまねく知らしめてくる。

 今ならばまだ戦える。
 しかしこれ以上、朝倉家が強大化しては、もはや抗えなくなるのではないのか。

 そして織田家と朝倉家は仇敵同士。
 事が極まってからでは、あの姫に根絶やしにされるだけだろう。

 死ぬのはいい。
 しかしみすみす織田家が滅ぶのを看過することは、なかなかに堪えがたかったのである。

「お、お待ちを」

 慌てたように利堯が口を挟んだ。

「そのようなことを勝手にすれば、殿のお怒りに触れますぞ! 下手をすれば廃嫡ということも……!」
「廃嫡されて、お家が存続するのならばそれでも構わん。しかしこのままでは……父上では、この織田家を滅ぼしかねぬ」
「滅多なことを申されてはいけませぬ!」

 慌てる家臣達であったが、信忠は辛抱強く思う所を語った。

「父上はお強い。だが強いがゆえに足元を省みたりはせぬ。また内にも外にも敵を作り過ぎる。あのご性格ゆえに仕方無いともいえるが、それでは朝倉の姫には通用せん。……食い殺される定めとなろう」

 信忠の言に、周囲はぞっとしたように顔を見合わせた。
 このことは後に、織田家にとっての運命を左右することになる。


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