朝倉天正色葉鏡 甲州征伐編 第200話
◇
「……そう。わかったわ。ご苦労様」
越前亥山城。
奥越前にある朝倉景鏡の隠居地である。
その一角で何者かの話を聞いていた乙葉が頷くと、その周辺にあった気配は音も無く消え失せた。
「……はぁ。妾も行きたかったなあ……」
「主様のご命令は絶対です」
ぼやく乙葉の隣には、三歳児程度の幼子が座している。
しかしその背筋はぴんと伸び、話す口調は流暢で大人びてすらいた。
誰であろう、色葉の子である朱葉である。
「分かってるわよ」
乙葉は唇を尖らせて、隣の朱葉に視線を送った。
生後一年半程度であるというのに、すでにこの姿である。
ちなみに乙葉の腕の中には色葉のもう一人の子である小太郎が、尻尾にあやされてくすぐったそうにしていた。
こちらは年相応だろう。
異常なのは朱葉の方であった。
とにかく成長が早い。
内に秘めている妖気も半端なものでなく、色葉がそのまま小さくなったような存在感だ。
「でも、心配」
「それは私も同様です。もう少し成長すれば、同行したのですが」
「その時は妾が先よ。朱葉は留守番」
「納得できません」
「す、る、の」
あれやこれやと文句を言ってくる朱葉はとりあえず放っておいて、乙葉は溜息をつきつつ腕の中の小太郎を撫でた。
確かに朱葉がこの先成長すれば、乙葉や雪葉に劣らぬ力をもった存在になるだろう。
その忠誠心も異様に高く、護衛としては申し分はない。
ないが、だからといってその役を譲る気は無かった。
ただでさえ雪葉との間で、その役を争っているくらいなのだ。
後続の朱葉などに負けてたまるか、である。
「ところで、先ほどのものは」
「ああ、あれは妾のしもべよ」
妖として長く生きてきた乙葉には、当然同じ妖らと交流があり、その中にはしもべとして使役しているものらもいた。
色葉に仕えるまでは放置していたのだが、ここ最近ではそれらをまとめ、組織化し、自身の手足として使役していたのである。
主な目的は情報収集だ。
「姉様って、情報をとても大事にしているでしょ? 諜報……って言うのかな。貞宗なんかは特にそういうのを姉様に命じられて扱っているし、妾も妾で別の情報網としてお役にたっているってわけ」
特に今は戦時ということもあって、色葉の情報収集には余念がなかった。
その為に派遣している人員も、百を超えている。
乙葉もそれに倣い、越前にて留守を任された以上、これまで以上に情報収集に勤しんでいたのである。
それに遠征に出た色葉の動向も気になったことも大きい。
一乗谷から出て、武田領に近い奥越前にいるのも、少しでも色葉に近づきたかったからに他ならない。
そのためここ最近は、景鏡の亥山城に居座ることが多かった。
当然、任された小太郎や朱葉を引き連れて、である。
景鏡は景鏡で、孫が訪れたことに相好を崩していたのだったが。
「それで、どのような情勢なのですか」
「うーん……。たぶん、武田はもう駄目ね」
断片的な情報ではあるが、武田家では離反や謀反が相次ぎ、すでに本国である甲斐に攻め込まれている始末だという。
一方、朝倉の援軍は甲斐に到達しておらず、援軍は間に合わなかったと言わざるを得ない。
「姉様、とってもご機嫌斜めみたいなの。行く前からそうだったけど……。姉様、怒ると怖いから、皆苦労しているでしょうね」
今となっては色葉と力関係は逆転したどころか、圧倒的な差が乙葉とはある。
だから本来ならば恐れるに及ばないはずだというのに、色葉の勘気は未だに恐ろしい。
縁でも切られたらと思うと、ぞっとなるのだ。
そんな色葉に諫言したり直言できるのは、朝倉家中では雪葉と貞宗くらいのものである。
乙葉でも、無理なのだ。
だから時折、雪葉や貞宗のことが羨ましくなる。
それをして、色葉が受け入れてくれるのは、やはり信頼の証。
自分だったらどうなるのだろうと、怖くてできないというのに。
「でも、雪葉が傍にいるのにずっとご機嫌が麗しくないなんて、雪葉ってば何してるのかしら」
「それほど情勢が悪い、ということではないかと。……やはり私がついて行くべきでした」
無念そうにつぶやく朱葉。
「……あのねえ。朱葉がついて行ったらひたすらおしゃべりしているだけでしょ? しかも一方的に。お仕事の邪魔よ」
朱葉はとにかくしゃべるのが好きなのだ。
とはいえそれは色葉に限定されるのだが。
色葉は意外に根気よくそれに付き合ってはいるが、時折やかましいと煙たがっていることもあったりする。
「姉様は静かに書物を読むのがお好きなの。あなたも元は本なら黙って読まれていればいいのに」
「私は主様と会話をしたいのです」
「それは妾も一緒。でも朱葉の場合は行き過ぎ」
「……むぅ」
膨れっ面になる朱葉を見て、乙葉は思う。
今まで何度も思ったことであるが、こうして奇天烈な方法で受肉を果たしたこの朱葉という存在は、そもそも何者なのだろうか。
当初は何かしらの妖があの書物に封じられているものかとも考えていたが、どうも違う。
そもそも色葉からして、乙葉の知る妖とは違う気がする。
その容姿はまさに妖狐の類なのだが……。
「……ねえ」
「何でしょうか」
「朱葉って、何者なの?」
今までは色葉に遠慮して尋ねることはなかったが、とうとう疑問を口に出してしまう。
多少は意を決しての質問だったのだが、対する朱葉はきょとん、となっただけだった。
「ご存知無かったのですか?」
「……知らないから聞いてるんだけど」
「そうですか」
それもそうかとばかりに朱葉は頷いて、特段隠すことでもないとばかりに語ったのである。
「私はアカシック・レコード……そうなる予定の存在です」
「あ、あかしっく・れこうど?」
「はい。私の創造主がそうおっしゃっていましたので。ちなみに愛称はアカシア、でした」
「ああ……。姉様、あの黒い本のこと、そう呼んでいたものね」
アカシア、という名前ならば、朱葉という新たな名を名乗る前のものであり、乙葉にしてもよく耳にしていた名だ。
しかしアカシック・レコード、というのは何が何やら、である。
「で、そのアカシック・レコードって何なの?」
「この世の始まりからのすべての事象や想念、感情が記録されているという、世界記憶の概念のことです。アカシックとは、サンスクリット語のアーカーシャに由来するといわれています」
「む? それって梵語でしょ? 確か……虚空蔵菩薩のことを、アーカーシャ・ガルバ、とかいうんじゃなかったかしら」
「はい。よくご存じですね」
「この日ノ本にもずっと前に伝わっているし、妾、大陸での記憶もあるから……」
しかし何でそんなものがここにあるのかと、乙葉は考え込む。
「……ということは、朱葉って虚空蔵菩薩か何かなの? 妖じゃなくて、そっちの類?」
乙葉の記憶によれば、虚空蔵菩薩は知恵の菩薩ともされ、人々に知恵を授けてくれる存在ともいわれていたはずだ。
そして色葉は書物という形で朱葉から知識や知恵を得て、これまで行動し、結果を出して来たのであれば、あの博識ぶりにも頷けるというものだ。
「違います」
「違うんだ」
「ですが、例えるに適当な存在ではありますから、似て非なるもの、という解釈で構わないかと」
「ふうん?」
よく分からなかったが、やはり妖の類ではないらしい。
となると……そんな朱葉を従えていた色葉は何者なのか。
「……じゃあ姉様のこと、聞いていい?」
「どうぞ」
「姉様って、何者なの?」
「主様は主様ですが」
「そういう朱葉の主観じゃなくって」
少し逡巡しながらも、乙葉はさらに問いを続ける。
「もっと……そう。姉様はどこから来て、どういう存在なのか。もちろん、姉様がどんな存在であろうと、姉様は姉様。それは変わらない。でも、やっぱり気になるから」
やや言い訳じみた言葉を交えつつ、そういえば自分は自身のことを色葉に語ったことが無かったことを思い出して、ばつが悪くなってしまった。
色葉は基本、詮索をしてこない。
にも関わらず自分は、と思ってしまったからだ。
「主様は、この世の方ではありません」
「――え?」
そんな乙葉の気持ちをよそにして、朱葉は語りだす。
「な、なにそれ? どういう意味……?」
「……よろしいでしょう。雪葉のみで、と思っていましたが、協力者は多い方がいい。乙葉も主様の妖気を多分に身に受けたのですから、親和性は高いはず。主様がどういう存在で、今どういった状況なのか、全てお話します。私の失態を払拭するためにも、協力して欲しい。お願いします」
どこまでも真摯に見つめられて、乙葉は息を呑んだ。
そうして。
乙葉もまた知るべきことを知って、為すべきことを悟るのであった。
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