朝倉天正色葉鏡

第184話 高天神城の戦い

朝倉天正色葉鏡 甲州征伐編 第184話

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 岡部元信。

 岡部氏は今川家の重臣であり、元信は今川義元に従って遠江国や三河国の平定に貢献した武将である。
 その後、今川家は織田家との抗争が活発化し、尾張国の一部に勢力を拡大した今川家は、尾張鳴海城を元信に任すことになった。

 そして永禄三年。
 桶狭間の戦いが勃発する。

 この戦いで今川義元は討死。
 織田信長の反攻が始まり、総崩れとなる今川勢の中にあって、ただ鳴海城の元信だけが頑強に抵抗し、ついに信長はこれを落とすことができなかったという。

 そこで元信は信長と交渉し、主君・義元の首級と引き換えに開城を申し出る。
 その忠義に信長も感動したといい、交渉はまとまり、元信は義元の棺と共に堂々として、鳴海城を退去したのだった。

 その後、永禄十一年には今川家は武田家によって滅ぼされ、元信は武田信玄に降伏して以後は武田家に仕えることになる。

 そして天正二年。
 信玄の跡を継いだ武田勝頼は、信玄すら落とすことの叶わなかった遠江高天神城を攻略。
 これに元信を城将として据えた。
 以降、元信は高天神城を守り続けてきたのである。

 時はくだり、天正八年。
 勝頼が討死したことで、北条家が武田領へ侵攻を開始。
 その先鋒を務めた徳川家康は、因縁の地である高天神城を完全に包囲した。

 それまでに、駿河や三河はすでに失陥し、残る遠江ももはや風前の灯となっていた状況で、しかし元信はやはり頑強に抵抗する。
 高天神城の堅城ぶりと、元信の采配にこれまで幾度も手を焼いていた家康は、無理に攻めずに周囲に補給を断ち、兵糧攻めに持ち込む戦法をとった。
 時はかかるが確実な方法だと考えたからである。

 この時の徳川隊、五千余。
 対する高天神城守備隊は僅か七百である。

 苦境の中、元信は新府に使者を出して援軍を要請。
 しかし武田家は勝頼の死による混乱の最中であり、幼少であった信勝は援軍を派遣することはできなかった。

 そうしているうちに年は変わり、天正九年三月二十五日。
 すでに兵糧は尽き果て、城内の草木すら食い尽くして餓死者が出る中、元信は悲壮な覚悟を決めるに至ったのである。

「もはやこれまで。このまま飢えて死ぬを待つよりは、最後の力を振り絞って打って出、一矢報いたいと思うが如何に」

 元信の問いに、集められた諸将は誰もが承知した。

「わしはこの城を任せられた時より、生きて出るつもりもなかった。されど篭るばかりでは殿への恩義を返せはせぬ」
「げにも」

 頷くのは孕石元泰。
 元信と同じく元は今川家臣であり、その後武田家臣となった人物である。

「横田殿は、如何か」

 居並ぶ諸将の中で、元信は一人の将への視線を向ける。
 横田尹松。
 高天神城の守将の一人である。

「……この城はもはや捨て石。なれば一日でも時を稼ぐが、最も功であると考えます。されど、岡部殿や皆のご意思は尊重したく」

 元信を始め、諸将のほとんどが新府に援軍要請を行う中、唯一尹松のみが反対し、援軍不要の書状を送っていたのだった。
 武田家が援軍を送れない事情はいくつもあったが、その中の一つに、信豊らを初めとする重臣の一部が、織田家の和睦交渉に動いていたこともあった。

 東西からの挟撃に、今のところ同時に迎撃する余力はない。
 援軍を期待できる同盟国の朝倉家は、諸事情があって即座にそれを頼みとできない。

 となれば停戦や和睦交渉となるが、勝頼を討ち取った北条家との和睦は考えられない。
 ならば織田家との和睦が現実的であると、新府では考えたのだ。

 また北条家の攻勢に対するに、朝倉家ほどではないが、上杉家からの援軍は多少あてにできるという事情もあった。

 北条からの攻勢を防ぎつつ、遠江割譲を条件に織田家と交渉する。
 これがまとまれば、恐らく遠江を巡って今度は織田家と北条家が対立することになる。むしろそのようにもっていく。

 この高天神城も北条家に対してではなく、織田家に対して開城するのだ。
 当然、両家に火だねが燻ることになるだろう。
 その間に時を稼ぎ、領内の安定を確実する、というのが新府の方針であるはずだった。

「……我らは無骨ゆえ、政治は好かん。だがそれゆえ、横田殿には気苦労をかけた」
「滅相も無い。主家のためとはいえ、城内の結束を乱したことはお許しいただきたく」
「では、決まりであるな。今よりささやかではあるが、一席もうける。その後、討って出るぞ」
「応!」

 こうして高天神城にこもる城兵は、元信自らに率いられ、徳川の陣目掛けて吶喊することになるのである。
 この時、横田尹松のみは元信の命によって城内脱出を優先させ、高天神城陥落の報を、新府に伝える役を負うことになったのだった。

     ◇

「城内より武田方が討って出ましたぞ!」

 陣にあった徳川家康の元に、その日の夜、急報が届けられた。
 報告によれば、城兵は徳川方のうち、石川康通の陣に攻めかかっているという。

「ついに来たか」

 城内の兵糧が窮乏していることは周知の事実であり、いずれたまりかねて打って出て来る可能性は、家康も十分に承知していたのである。

「敵は死に物狂いで来るぞ。すぐに康通に援軍を送れ」

 家康の命により、大久保忠隣と大須賀康高がただちに駆け付けて応戦。
 激戦を展開した。

「少数とはいえ難敵であるぞ」

 寡兵ながら、怒涛の勢いの武田方を目にした忠隣であったが、

「ならばそれがしにお任せを!」

 勇んでそう声を上げたのは、忠隣の叔父に当たる大久保忠教である。
 叔父とはいえ、年下である忠教に油断するなと忠隣は申し付け、忠教隊は武田方の先頭に打ち掛かった。

 その先頭で太刀を振るう老将目掛けて自らの太刀を合わせると、打ち払い、切り崩すべく先へを駆ける。

「白髪首などそなたに任すぞ主水!」
「ははっ!」

 忠教家臣・本多主水は主君の後を引き継いで、その老将に勝負を挑み、数合を打ち合った。
 そしてついには足元が崩れ、老将が体勢を崩したところを主水はすかさず組みかかり、その首級を討ち取ったのである。

 これが誰であろう、岡部元信であった。

 こうして元信率いる決死隊は壊滅し、家康は形勢有利とみるや、家臣の本多忠勝や鳥居元忠、戸田康長らの隊に城内突撃を命令。
 高天神城の城兵は掃討され、陥落した。

 守将であった横田尹松は無事脱出できたものの、孕石元泰は捕らえられ、家康によって処刑された。
 ちなみに孕石元泰は家康が今川家の家臣時代、屋敷が隣り合わせであったというが、その際の揉め事を未だに家康は根に持っており、切腹を命じたのだという。

     ◇

 時を同じくして天正九年三月二十八日。
 高天神城に続いて二俣城も陥落し、完全に孤立した浜松城もまた、織田家の柴田勝家の猛攻を受け、玉砕した。

 城を守っていた山県昌景は、その赤備えと勇猛な部隊から、武田家でも最強と謳われた精鋭であった。
 そのため勝家ですら大いに手こずることになったが、所詮は多勢に無勢。
 また補給も断たれていたことから山県隊も徐々に力を失い、ついには玉砕となったのである。
 昌景以下将兵はほぼ討死と、全滅となった。

 これにより遠江は完全に失陥し、武田信豊らが画策していた織田家との和睦は頓挫。
 武田家にとって、更なる苦境が待ち受けることになる。


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