朝倉天正色葉鏡

第136話 徳川滅亡(後編)

朝倉天正色葉鏡 西上作戦編 第136話

「さすがは朝倉の姫。またもや恩を売りつけてくるか。であれば何としても徳川を滅ぼし、期待に応えねばなるまい」

 勝頼はただちに策を講じた。
 まず分断されていた徳川信康の籠る岡崎城に対し、流言を仕掛けたのである。

 その内容は二俣城の陥落と、その援軍に駆け付けた徳川家康勢を武田方が決戦にて打ち破り、徳川勢は壊滅。
 家康は落ち延びたものの浜松城は完全包囲され、落城間近である、というものであった。

 この報に信康は堪えきれずに出陣。
 山県勢が阻んだかにみえたが、これを一蹴し、遠江へと進軍。
 一気に浜松城に進軍したのである。

「己が武勇を頼みに出てきたか。まだまだ家康には及ばぬな」

 家康の嫡男である徳川信康は武勇に優れ、かつて対峙した勝頼もそれを認め、また家康からは「まことの勇将なり。勝頼が例え十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と称賛した武将でもある。

「昌景はうまく信康を引き込んだな」

 家康を救うためにと猛進してくる信康勢は、まさに猛牛の群れであった。

 その数は数千ではあったが、この勢いをまともに正面から受けては大怪我をすると判断した勝頼は、浜松に至る道筋にいくつもの罠を設けて進軍を鈍らせ、疲れを待ち、三方ヶ原へと進む直前にある気賀の地にて信康勢を迎撃。

 四方から攻め寄せ包囲殲滅した。
 この気賀の戦いにより信康勢は奮戦虚しく壊滅したのである。

 徹底した情報封鎖をされていた浜松城の徳川勢は、状況が分からないまま以前のように武田勢が西進して三方ヶ原を通過していくのを固唾を呑んで見守っていたが、やがて悲報がもたらされることになった。

「気賀にて徳川信康様、武田勝頼と決戦に及びご敗北! 信康様お討死!」
「何だと!」

 あまりの報せに家康はその場にひっくり返り、家臣たちが慌てて助け起こした。

「おのれ、武田勝頼許すまじ。出陣の触れを出せぃ!」

 一部の家臣の反対はあったものの、家康はそれを押し切って浜松城から出陣。決戦したばかりの武田勢の後背を討つべく全軍をもって進軍した。

 そして三方ヶ原に至り、果たして武田勝頼は待ち構えていたのである。

「やはり来たか徳川家康」

 全ては勝頼の思惑通りに事は進んだ。
 唯一気がかりであったことは、連戦になるため将兵の疲労の回復がままならないことと、迎撃の態勢が整う時間があるか、であった。

 しかし勝頼の采配により軍勢は瞬く間に転進し、三方ヶ原にて配置。
 手ぐすねを引いて家康を待ち構えたのである。

 かつてを彷彿とさせる状況に、徳川方に不吉な予感があったことは否めない。
 しかし信康の弔い合戦であると息巻く徳川勢は、魚鱗の陣を取っての吶喊を試みることになる。

 狙うは武田勝頼の首一つ。
 対する武田方は鶴翼の陣。

 奇しくもかつての戦いとはまったく逆の陣形による対決となった。
 こうして戦機は熟し、両軍は開戦に至る。

 天正七年十月十日。
 世にいう第二次三方ヶ原の戦いである。

 勝頼は鶴翼の中央の先頭に陣取り、敢えてその存在を誇示してみせた。
 これは頭に血の上った徳川勢を中央に引き寄せるためである。

 徳川勢は両翼を無視して中央に殺到。
 その勢いや筆舌に尽くしがたいものだったが、両翼より轟音が響き渡り、徳川勢の先陣は一気に足並みが乱れた。
 これは左右両翼に配備された鉄砲隊による、十字砲火の結果である。

 長篠の敗戦以降、勝頼は朝倉家を通じて大量の鉄砲を仕入れるに至っていた。
 朝倉家自体が大量の鉄砲を集めており、自前での生産も軌道に乗ったことから優先的に同盟国である武田家に流していたのである。

 武田方は突撃する徳川勢に対して徹底的に予備射撃を行い、その陣形が乱れたところを見計らって自慢の騎馬隊を突撃させた。

 長篠の雪辱を果たすべく、勝頼自ら陣頭に立って指揮した騎馬隊の士気は高く、徳川方に何ら劣るものではなかった。
 となれば、数の優位が物をいってくる。

「殿っ! お退き下され! ここは拙者が食い止め申す!」
「たわけが平八郎! わしはここが死地であるとすでに覚悟しておるわ!」

 迫り来る武田勢を撃ち返す平八郎こと本多忠勝は奮戦しつつ、これでは埒が明かないとばかりに家康の傍で奮闘する若武者に向かって叫んだ。

「万千代っ! 殴ってでも殿をお連れせよ!」

 家康の小姓として取り立てられていた井伊万千代は忠勝の気迫に押され、しかし戦況の不利を悟って周囲と示し合わせると、家康の乗る馬を打って無理矢理に走らせ、戦場の離脱を図った。

「何をするか!」
「ここで死んではそれこそ信康様はお嘆きになられますぞ!」

 万千代は信康と歳も近く、そこに信康の姿を見た家康は息を呑み、ただただ叫んで馬を走らせた。

「ぬおおおおっ!」

 その苦渋の絶叫は、いつまでも三方ヶ原に木霊したという。

 第二次三方ヶ原の戦いは、武田方の大勝利で幕を閉じた。
 大敗北を喫した徳川家康は浜松城に戻ることすら叶わず、浜名湖に面した堀江城へと逃げ込み、そこから船に乗り込み陸を離れることになる。

 城主不在となった浜松城は即座に勝頼に包囲されて、落城。
 三河岡崎城もまた、山県昌景に包囲されて落城する。

 これにより徳川氏による遠江や三河での支配権は失われたに等しく、事実上、大名家としての徳川家は滅亡した。

 家康は出来得る限りの家臣を助け集めると、船にて何処かを目指して去ったのである。


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