朝倉天正色葉鏡

第112話 朽木谷の戦い

朝倉天正色葉鏡 色葉上洛編 第112話

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 丹羽長秀。

 信長が尾張一国のみを支配していた頃から仕え、各地を転戦して功を挙げ、若狭一国を与えられたことで織田家臣の中では最も早く、国持ち大名になった人物である。

 また軍事面での活躍のみだけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮した。
 信長が安土に築かせた安土城の普請の総奉行を務めたのも、長秀である。

 まさに織田家における重臣で、筆頭家臣である佐久間信盛の次が柴田勝家であるのならば、その次に来るであろう家臣であり、勝家と長秀は織田の双璧と呼ばれるほどであった。

 また長秀自身は信長の養女であった桂峯院を正室に迎え、その子である長重は信長の五女である報恩院を正室に迎えるなどその繋がりは深く、信長に非常に信頼されていたといっていい。

「国吉城は未だ健在か」

 朽木谷へと入った長秀ではあったが、若狭が目前に迫ってきたというのに情報が錯綜していることに、何とも言えない胸騒ぎを感じていた。

「物見させた者は戻ってきておりませぬ」

 答えるのは丹羽家の家臣である戸田勝成である。

「ううむ……」
「殿、急がねばいよいよ危ういかと」
「しかしすでに落ちたという報せもあった」
「とはいえ朽木殿からの情報なれば、間違いは無いかと」

 朝倉勢が京を急襲する可能性に織田勢の主力であった明智勢三万は、摂津より京へと取って返し、これに備えることに間に合った。
 そのため唯一京の守備に残っていた長秀は、自身の領国である若狭へと急ぎ戻ることになったのである。

 ところが朝倉勢は京をすぐには攻めず、何と若狭を急襲したとの知らせが、道中にてもたらされた。
 現在の若狭はまさに手薄であり、長秀は急いで進軍したものの、大溝城に入った時点で若狭陥落の凶報がもたらされ、いったん進軍を停止したのである。

 長秀の手勢は僅か三千。
 不確かではあるが、急襲した朝倉勢は万余とのこと。
 若狭が落ちたとなれば、このまま進んでもまさに飛んで火にいる夏の虫、である。

 そのため大溝城で情報収集に努めていたのであるが、そんな折に朽木谷の朽木元網より新たな情報がもたらされたのだった。
 若狭の諸城はそのほとんどが落ちたものの、国吉城のみが健在で、粟屋勝久と江口正吉が徹底抗戦しているという。

 国吉城はかつて粟屋勝久がこれに籠り、幾度も朝倉勢の侵攻を防いだ堅城である。
 勝久のその壮絶な戦いぶりには信長も称賛したことがあるほどで、これを見捨てれば織田の名声は大いに下がることになるだろう。

 そのためにはこのまま援軍に駆け付けることこそが必要であるが、しかし本当に無事なのか、という思いもあったのだ。
 少なくとも陥落寸前であることには違いない。
 一歩間違えればこちらが死地に追いやられることになるかもしれないが――

「いや、無粋であるな」

 一笑に付して、長秀は決断する。

「勝成、ただちに前進するぞ。味方の窮地を見捨てては武士の名折れ」
「ははっ!」

 もしこの時、重臣であった坂井直政や名将として知られる江口正吉が傍にいれば、長秀を諫めたかもしれない。
 寡兵で援軍に向かうなどもっての他であると。

 しかし直政はすでに討死し、正吉は敵中にあっては如何ともしがたく、長秀の命運を定めることになったのだった。
 長秀は元網に後詰を要請し、元網はこれを受けて五百の兵で後備の役を引き受ける。
 そして若狭へと急行すべく朽木谷を出たところで、悲劇は起こった。

「名にし負う敵将と見受けたり!」

 突如行く手を阻むようにして現れた一軍を率いるのは、朝倉家臣・杉浦又五郎である。

「その首頂戴致す!」
「何をふざけたことを!」

 突然の朝倉勢の来襲に丹羽勢は驚いたものの、しかし即座に戸田勝成が手勢を率いて迎え撃つ。
 勝成は丹羽家にあってその武勇を知られる武将である。
 不意を突かれたとはいえ、もろくも崩れるようなものでもない。

「杉浦某とか言ったか! ぬしのような雑兵に討たれるとでも思ったか!」
「我が父、杉浦法橋を知らんのか!」

 杉浦勢と戸田勢が大混戦となる中、長秀は即座に朽木谷へと戻る選択をした。
 この街道は狭く、このような場所で戦っていても効率の良い戦いなどできるものでもない。
 幸いにして朽木谷を出たばかりである。
 戻って態勢を立て直し、敵を引き寄せてその頭を一気に叩けば勝機はある。

「朽木殿に伝えよ!」

 突然の奇襲に遭いながらも長秀の統率は行き届いており、軍勢は統制をもって反転。
 後詰を任されていた朽木勢の動きが俊敏であったことも、軍の転進に幸いした。
 少なくとも長秀にはそう見えていたのである。

「道の半ばで奇襲すれば良いものを、功を焦ったな」

 敵の急襲には肝を冷やしたが、しかし稚拙な敵将であったことに助けられたようだ。

「よし! 勝成に伝えよ! 敵を引きずり込め、と!」

 丹羽勢の後退はうまくいったかにみえた。
 しかし思わぬ報告がすぐにももたらされることになる。

「申し上げます! 敵兵多数、こちらを包囲しつつあり!」
「なんだと!?」

 街道を抜けた途端、半包囲にて待ち構えていた敵兵に頭を押さえられた丹羽勢は混乱し、またその好機を逃す敵将でも無かった。

「撃て!」

 堀江景忠の号令の元、一斉に銃撃を浴びせられる。
 丹羽勢の足並みが乱れた所へと堀江勢は包囲を縮め、その頭を叩き、効率よく敵を消耗させていく。

「朽木元網裏切ったか!」

 必死に態勢を立て直しつつ、長秀はそれを認めざるを得なかった。
 後退を先導した朽木勢は朝倉勢の攻撃を受けることなくこれを素通りし、引き込まれた丹羽勢は包囲されて徹底的に討たれていることからも、もはや疑いようも無い。

 そもそもにして朽木谷にこれほどの朝倉勢が潜んでいたことからしても、元網の裏切りは確定だろう。
 となれば、元網が知らせた国吉城健在の報せもその真偽は怪しい。

「もはやこれまでか」

 街道内では杉浦勢に、街道出口では堀江勢に囲まれた丹羽勢は必死に抵抗するも退路も無く、やがて雑兵から左右の山中への逃亡が始まり、ついには長秀の周囲には数十騎を残すのみとなっていた。
 そのような中、いったん攻撃が止む。

「見覚えがあるな。お前が丹羽か」

 死体が散乱する戦場をまるで気にする風も無く踏み越えて、一人の女が単騎で現れたのである。
 その特徴的な容姿には、長秀も見覚えがあった。

「朝倉の、姫か」
「いかにも」

 本能寺での会見の際に見せたあの笑みを浮かべつつ、色葉は頷く。

「朝倉優勢とはいえ、一人でこのような所に参るとは……我らを侮るか」
「ん、そんなつもりはないんだが」

 非難されるとは心外、とばかりに色葉は肩をすくめてみせる。

「お前を評価してわざわざ出向いてやったんだ。このままでは全滅は必至だろう? 降伏すれば命は助けてやる。そういう話だ」
「我々に降れと……?」
「そうだと言っただろう」

 何でも無いことのようにそう告げる色葉をまじまじと見返して、長秀はこの状況を打破する方法を次々に考えていた。
 いったいどんな神経をしているのが、単騎でここまでやって来た色葉の度胸を褒めるべきか愚かというべきかは置いておいて、こちらは討ち減らされたとはいえ数十騎の兵が健在であり、これを捕らえて人質とすることは可能だろう。

 と、そこで色葉がにやりと笑った。
 ぞっとするような笑みである。

「やってみるか?」

 まるで長秀の心境を読んだかのように、色葉は言う。

「やってもいいが、多分失敗するぞ? わたし一人で疲労し切ったお前達を皆殺しにするのは実は簡単だし、そもそも乙葉の奴が許さないだろうな。さっきから物凄い殺気でお前達を睨んでいる」

 戦場に殺気が満ちるのは当然であるが、その中にあってこの姫の落ち着きようには長秀を恐怖させるに十分だった。
 そしてすぐに悟る。
 これには勝てない、と。

「返事は早く寄越せ。わたしはあまり気の長い方ではないからな。今日は家臣どもの手柄を横取りする気は無いから誰も殺していないが、こうも周囲に魂が漂っていると腹が減る。ついその気になってしまうぞ?」

 何の比喩であるか長秀には分からなかったが、どちらにせよ降伏しないのならば手ずから殺す、ということなのだろう。

「槍を捨てよ」

 観念した長秀は、残った家臣や兵にそう命じた。

「それがしは降伏できぬが、家臣の命は助けて欲しい」
「お前はわたしに降らないと?」
「織田家は未だ健在なれば、ここで降るなどあり得ぬ話だ。しかしこうして敗れた以上、潔くはありたくも、家臣の全てがそれに従う必要も無かろう。それがしのみで、殿への忠節は貫ける」
「ふうん……」

 色葉は面白く無さそうな顔になって、長秀を眺めた。

「……孝高もそうだったが、人材を奪うというのは難しいな」

 ふん、と鼻をならして色葉は踵を返す。
 それはあまりに無防備な背中ではあったものの、長秀らはそれに手出しをしようという気にはまるでなれなかった。
 場を完全に支配していたからである。

「――ね、色葉様? 結局あれどうするの?」

 どこからともなく現れた小柄な娘が、色葉の隣に並んで首を傾げていた。

「この朽木谷に捕らえておけばいい。わたし達が京から無事に戻れたならば、その時にまた機会を与えてやるつもりだ」
「え? 殺さないの?」
「乙葉は殺すべきだと思うか?」
「う~ん……。色葉様にこの前言われたことは分かっているつもり。でもあの丹羽って人間の魂、少し美味しそうだったもの。色葉様が食べれば少しでも力が戻るでしょ? 妾はそっちの方が嬉しい」
「あはは」

 色葉は笑い、乙葉の頭を撫でる。

「心配せずとも、お前が強く賢くあってくれればそれでいいんだがな」

 などと交わされる会話を耳にしつつ、長秀はしみじみと敗北を受け入れていた。

「朝倉家、か……。まことに織田家を滅ぼすのか、それとも……」

 今はまだ分からないが、織田家に危急が迫っていることは、もはや疑いようも無いのかもしれない。


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