朝倉天正色葉鏡 畿内動乱編 第78話
「順慶殿か」
久秀は思わず天を仰ぐ。
筒井順慶。
齢二歳にして家督を継ぎ、大和へと侵攻してきた久秀を相手に戦い、時には敗れ、時には勝利した筒井家当主。
それが今、久秀の目の前に物言わぬ首となって、あった。
「どう? 気に入った?」
「……やってくれたものだ」
すでに自分が追い詰められていることを悟って、久秀は唸る。
「順慶殿の死が知られれば、当然わしが疑われよう……」
「証拠なんか残してないけど」
失礼ね、と言わんばかりの乙葉へと、久秀は苦く笑う。
この乙葉と名乗る妖は分かっていないのかもしれないが、これをさせた色葉なる者は分かっていてやらせたはずだ。
「闇討ちしたこと自体は確かである以上、誰が、という話になる。利害関係や過去の因縁から、当然わしが最初に疑われるじゃろう」
一度疑われると、後々厄介なことになる。
加えて久秀のこれまでの評判を鑑みれば、誰もが納得するだろう。
あの男ならやりかねない、と。
「つまり織田家中に居づらくなってしまった、ということだ。まったくとんだ贈り物を寄越してくれたものじゃな……」
このまま座していては、身を危うくする可能性が高い。
むしろ動かねば、活路はもはや無いのかもしれない。
久秀は決断した。
「よいじゃろう。誘いに乗ってつかわす。ただし!」
身を乗り出し、にたりと笑う。
その雰囲気は、さながら悪徳商人のそれである。
「丹波一国では不服じゃ。丹後も欲しいと色葉殿に伝えよ」
「伝えるまでもありません。色葉様はお許しになるでしょう」
「なに」
面食らうとはこのことであった。
「わしが丹後を要求することも見越していた、というのか」
「大和国に釣り合うだけの領国となれば、丹波国だけでは頷かないだろうと、色葉様はおっしゃっておられました。その際松永様は丹後国か若狭国を要求してくるだろうから、若狭は許さぬが丹後なら構わない、とも」
「む……ぅ」
ここまで先々を読まれていると、もはや感心するのを通り越して呆れるしかなかった。
「それが分かっていて、丹波だけを先に言ってくるとは……実に交渉上手であるな。しかし何やら負けたようで悔しいのう……」
「我が主を前にすれば、そのような感傷も無くなるでしょう」
「ほう。それほどまでに出来たお方か」
「いえ……そうとは申せませぬ。家臣遣いは荒いですし、傲慢ですし、人の道に外れたことも平気で致しますし、大酒も飲みますし、時折思い出したかのように私に身の回りの世話をさせようとしますし……」
くどくど、と続く貞宗の言に、久秀はやや呆気にとられたようでもあった。
「なんじゃ。まるで良い所がないではないか」
「ちょっと貞宗、色葉様に喧嘩売ってるの?」
むー、と睨んでくる乙葉の様子に、我に返ったように頭を振る貞宗。
「いえ、まあ、何と言うか……色々と、諦めの境地に立たせてくれるのです。お会いすれば、ご理解いただけるかと」
「残念な姫にしか聞こえんがのう……」
まあ良いか、と久秀は思う。
何はともあれ、以前より欲していたきっかけがこうしてやって来たのだ。
自身の年齢を考えても、恐らく最後の機会となる。
となれば、迷う必要も無いだろう。
「ここまでする色葉殿のことだ。このわしの進むべき道も考えてくれてあるのだろう?」
「これに詳しく」
貞宗が差し出したのは、一通の文。
「預かろう」
恐らく久秀が謀反するにあたっての、詳細な計画書か何かだろう。
ここでは確認せず、懐にしまい込む。
「わしが愉しめる内容であることを、期待するぞ」
「さて、それはわかりかねますが……」
「真面目な奴じゃな。……ところで」
ここで久秀は話をがらりと変えた。
「この狐娘はおぬしのものか?」
「誰が狐娘よ!」
「違います」
「ふむ……? おぬしが使役しているのかと思ったのだが、違ったか」
「失礼! 無礼! 妾は色葉様にお仕えしているの! そりゃあ……貞宗は色葉様の一番最初の家臣かもしれないけど、そんなの関係無いし! 雪葉にだって、今なら負けないし!」
抗議しつつ、握り拳で力説する乙葉は置いておいて、貞宗は気になったように首を傾げてみせる。
「妖を恐れぬように見受けましたが……最初にこの者のことを説明しておくべきでしたか?」
乙葉のことはともかくも、色葉のこともある。
尻尾が生えているのは乙葉だけではないからだ。
もっとも乙葉は正真正銘の妖であり、妖狐がひとに化けているのであるが、色葉の場合は貞宗にしてみても、未だによく分からない、というのが実情である。
建て前では狐憑き、ということにはなっているが、実際にはもっと世にも恐ろしきものであると、貞宗は考えている。
いや、考えていた、といういうべきか。
「お転婆のようではあるが、うまく躾てもあるように思ったのでな」
「誰が躾――」
「……? どういう意味です?」
妙なものを感じ取り、貞宗は聞き返す。
抗議する乙葉のことは、いったん無視である。
「ふむ。実は手を焼いている輩がおってのう。妖を躾ける術があるのならば、一度習いたいと思ったのであるが……」
「それは妖退治をしたい、とおっしゃっておられるのですか?」
「いやいや。そういうわけでもない。ただもう少し、わしの言うことを聞いてくれたら、と思ってのう」
そう言う久秀の雰囲気は、それまでの老獪なものではなく、初めて抱いた赤子を前に苦慮しているような、そんなものに変わっていた。
貞宗にしてみれば、思わぬ表情であったといえる。
「私にはそのような知識はありませぬが、我が主ならば心得ているやもしれませぬ」
「ほう? ……ふむ、そうであるな。この狐娘を従えておるのだから、それも然りか」
「だから誰が狐娘よ。乙葉っていう名前があるのだから、ちゃんとそれで呼びなさいよ。……というかあなた、妖に知り合いでもいるわけ?」
「知り合いというか、飼っているというか」
どこか曖昧に、久秀は頷く。
「……人間如きに飼われるなんて、どうせ大した奴じゃないんでしょ?」
「お前も望月殿に飼われていなかったか?」
「う、る、さ、い! あの女のことは言うんじゃないわ!」
嫌な思い出に、苦虫を嚙み潰したようになる乙葉。
「で、どうなのよ? 何なら妾がそれこそ躾けてあげようか?」
「いや、それは」
「遠慮しなくてもいいわよ? あなたが色葉様に協力するのなら、妾も優しくしてあげるのもやぶさかじゃないもの」
その方がきっと色葉様に褒められるし、とも付け加えて乙葉は言う。
「……おぬしも相当な力を持っているのかもしれぬが、あれも尋常ではないのでな。下手に手を出せば火傷ではすまんぞ?」
「なにそれ。火でも吐くわけ?」
「まあ、そうとも言うかもしれんが」
「……不愉快。まるで妾の方が弱いと思われているみたいじゃない。絶対会って叩きのめしてやるわ!」
「そうですか。それは愉しみですね?」
それはあまりに不意打ちだった。
響いた声に乙葉は一瞬その尾を固くし、貞宗もまるで気配に気づかなかったことに驚愕する。
部屋の隅、薄暗いその一角に、いつの間にやら人の姿があったのだ。
入口が開いた気配は無い。
実際に、今も閉じられている。
しかしそこには一人の人物が佇んでいたのである。
「……殿? このような夜更けにどこに行かれたのかと思っていたら、まさかこのような場所でそのような娘と密会とは……。ご説明、いただけるのですよね?」