朝倉天正色葉鏡

第70話 三木合戦

朝倉天正色葉鏡 畿内動乱編 第70話

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 天正六年三月二十九日。

 東播磨に割拠していた別所氏当主・別所長治が突如織田家に対し、反旗を翻した。
 三木合戦の勃発である。

 播磨国は元々、守護の赤松氏が治めていた国であったが、嘉吉元年に発生した嘉吉の乱にて没落し、その後再興を果たすものの、その一族や家臣の台頭を許し、戦国時代に入るとそれらが郡単位で割拠するという有様になっていた。
 別所氏もその一つで、元は赤松氏の一族である。

 この播磨国は中国の毛利家、畿内を制圧しつつあった織田家との間に挟まれて、両家のいわば緩衝地帯になっていた。
 そのためこの地の諸勢力は両家と友好関係を結び、その存続を図っていたのである。

 東播磨に勢力を誇っていた別所氏においても例外ではなく、早くから織田家に通じていた。
 織田家と毛利家においても、それまで直接対立を避けてきた経緯がある。

 しかし京を追放された将軍・足利義昭が毛利を頼り、また石山本願寺の要請もあってついに反織田を鮮明にし、織田家においても重臣である羽柴秀吉を総大将に、中国征伐が開始されることになった。
 秀吉は播磨国の平定を行い、結果として播磨国の諸勢力はほぼ織田家寄りの立場を明らかにする。

 ところがこの天正六年三月になって、別所長治が離反して毛利方についたことで状勢は一変し、東播磨の諸勢力はもちろん、中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏もこれに同調。
 秀吉と長治は播磨において激戦を演じることになり、これが世にいう三木合戦である。

「三木城に籠ったのは七千五百とのことです。侮れるものではありません」
「まさか今になってなお、わしの出自が侮られ、このような結果になるとはな」

 三木城を前にした織田勢の中で、その総指揮官である羽柴秀吉は、やや自嘲にも似た呟きを洩らしていた。

「殿……」
「いや、気にするな半兵衛。慣れておる」

 少しだけ肩を落としていたようにも見えた秀吉へと、複雑な表情を浮かべたのはその側近である竹中重治である。
 秀吉の参謀として各地を歴戦した武将だ。

「秀長、交渉の余地は?」
「……難しいですな。向こうは諸籠りにて徹底抗戦の構えの様子。現状では不可能かと」

 難しい顔で答えるのは、秀吉の異父弟である羽柴秀長である。
 織田家臣としてその頭角を現した兄・秀吉を支え続けてきたのが、この弟である秀長であった。

 軍務、政務共に優秀で秀吉からの信頼厚く、常にその傍に置いていたこともその証左だろう。
 そして秀吉に物言うことができ、秀吉もまたそれをよく受け入れ、兄の欠点を補って余りあるほどであったという。

 また誠実寛大な人柄でもあり、諸将との調整役に優れ、この秀長の存在があってこそ、秀吉もここまで出世することができたといっても、過言ではない側近である。

「状況が変化すれば、あるいは、とも思いますが……」
「お前がそう言うのであれば、もはや戦は避けられぬとみるべきだな」

 これまで織田方についていた別所氏が反旗を翻したのには、いくつか理由がある。
 一つは秀吉との意見の対立である。

 これには別所氏側の感情的な要素も多分に含まれており、農民出身である秀吉に対して名門出身である別所氏側の意識の高さが、対立の発端になったともいう。
 とはいえ理由はこれだけというわけでもない。

 別所氏は元々毛利氏とも友好な関係にあったことや、すでに織田家から離反していた丹波国の波多野氏と婚姻関係があったこと、また織田家と対立する浄土真宗門徒が播磨国には多く存在したことなどがあり、更には長治の補佐役となっていた、別所吉親と別所重棟兄弟の対立など、内部的な要因も存在していたのである。

「半兵衛、どう思う? これを即座に攻め落とすのは困難だと思うが」
「然様ですな。やはり、支城を一つ一つ攻略し、孤立させるのが一番でしょう」

 別所方は三木城に立て籠もったが、この時には神吉城や、志方城、淡河城、高砂城、端谷城などもこれに従い、支援する形を取っていたのである。

「手間はかかるがそれが確実か」

 三木城に籠った兵力は多く、しかしそれだけに兵糧の確保が重要になることは間違いなかった。
 そのため秀吉は、兵站の確保や運び入れの支援を断つために、支城を一つ一つ潰し、三木城を完全包囲して兵糧攻めに出る策をとった。
 いわゆる三木の干殺しである。

 これに対し、毛利家も対応を取らざるを得なくなった。
 そのため毛利勢は四月に入り、別所氏支援のため、大軍をもって出陣。

 本来ならばここで秀吉勢へと迫り、直接対決に及ぶことが最善であったといえる。
 しかし毛利勢は三木城ではなく、上月城へと侵攻してこれを包囲。

 上月城は以前に秀吉によって攻め落とされ、尼子氏の残党である尼子勝久や山中幸盛が防衛の任にあたっていた城である。
 毛利氏が別所氏への直接支援ではなく、上月城を攻めることでの間接支援を行った理由には、備前国の宇喜多直家の要請があったからとされている。

 ともあれこの毛利方による上月城侵攻に対し、秀吉も支援のために軍を派遣したが、毛利勢は三万という大軍であり、とても敵うものではないと悟った秀吉は、織田信長へと援軍を要請。
 これに対して信長は嫡男・織田信忠を総大将にして、援軍を派遣。

 滝川一益、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝といった織田家中の重臣がそろい踏みの援軍ではあったが、信長の意図はすでに上月城の救援ではなく、あくまで三木城の攻略だったのである。

 そのため秀吉は寡兵のままであり、上月城に手を出すことができなかったのである。

「殿は如何なお考えなのか!」

 さしもの秀吉も六月に入り、この状況を見るに見かねて京の信長の下へと走った。
 毛利勢三万に対し、尼子勢は約三千。
 後詰めの無い籠城は敗北と同義である。
 そのため上月城の尼子勢は、絶望的な戦いを強いられたからだった。

 上月城救援を求める秀吉に対し、信長は播磨平定を優先させることを告げる。
 つまるところ上月城の尼子勢は、毛利の大軍を足止めするための捨て駒とされたのだった。

 信長の命により、秀吉は撤退。
 その際に上月城に対し、城の放棄と撤退を促すべく書状を送ったものの、尼子方はこれを無視し、あくまで徹底抗戦に及んだ。

 そして七月に入り、降伏・開城の運びとなる。
 城兵の命と引き換えに、尼子家当主・尼子勝久を初め、嫡男の豊若丸、また一門で兄弟の尼子氏久・尼子通久らが自刃。

 そしてこの尼子家を再興を目指し、最後まで戦った山中幸盛も捕らえられ、殺害に及ぶ。
 これにより、かつて毛利家と中国の覇権を争った尼子氏は、完全に滅亡したのだった。


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