朝倉天正色葉鏡

第50話 加賀侵攻

朝倉天正色葉鏡 北陸統一編 第50話

     /色葉

 天正四年三月。

 かねてからの予定通り、わたしは軍を率いて加賀国へと侵攻を開始した。
 陣容は以下の通りである。

 先陣:三千余騎 大将・堀江景忠
         副将・堀江景実
         副将・姉小路頼綱
 本陣:七千余騎 総大将・朝倉晴景
         副将・朝倉景胤
         副将・赤座直保
         副将・山崎長徳
 後備:三千余騎 大将・向久家
         副将・朝倉景道
         副将・向景友

 また守備勢として、

 北ノ庄留守勢:五千余騎 大将・朝倉景鏡
 敦賀方面守備:三千余騎 大将・朝倉景建
 大野方面守備:三千余騎 大将・大日方貞宗
 白峰方面守備:一千余騎 大将・内ヶ島氏理
             副将・尾上氏綱

 ざっくりとではあるが、このような陣容となった。

 実際に動員をかけてみたら、家臣どもが思っていたよりも兵を集めてきたようで、越前衆だけでも二万四千余騎と、それなりの人数となっている。
 この他にも僧兵集団である平泉寺衆数千余騎が予備兵力としてあるが、これは数えてはいない。

 また武藤昌幸の飛騨衆にも動員をかけることは可能であったが、これも今回は見送った。
 美濃方面の警戒に専念してもらわねばならないからである。

「しかし良かったのか? 俺が総大将で」

 出陣前に、引き受けつつも首をひねったのが晴景だ。
 晴景は朝倉一門となってから日が浅く、さらにはまだ二十歳前後の若輩者には違いない。

 朝倉家中における立場としては、わたし、景鏡に次ぐ三番目に位置しているものの、それが総大将を引き受けることに対して遠慮を示したことは、まあ当然の反応ではあった。

「父上はもう高齢であるし、わたしも今のところあまり表に出るつもりはない。将来のことを踏まえても、戦場には晴景様が出て経験を積んだ方がいいだろう。実績を残せば、家臣も自然に従うようになる」
「それは分かるが……。しかしそなたは良いのか? 家中ではともかく、こう裏方でいては対外的な武名や名声は得られぬであろうに」
「そういうのには興味がないからな。わたしは落ち着いた場所で……そうだな。本でも読めればそれで満足だ」

 本音である。
 わたしが天下統一を目指しているのは、もちろん勢いで始めてしまったということもあるが、突き詰めれば安全で落ち着いた場を得て、書籍を漁れればそれでいいのだ。

 とはいえ誰かに仕えていては、そういう時間も削られてしまうし、自由も利かなくなる。
 かといって世捨て人になるのも御免だった。
 どうせなら快適に過ごしたいものである。

 となると、自分が支配者になってしまうのが一番いい。
 しかも表に出ない形で、だ。

 もっとも実際にやってみると、なかなかうまくいくものでもなく、結局わたしが一番苦労しているような気もしないでもないが、まあ先行投資だと思っておくしかないか。

 それはともかく、晴景にも言った将来のためということもあり、今回の出陣には景建の子である景道や久家の子である景友なども参陣させた。
 待っていても優秀な人材というのは集まらないので、手元にある人材を育てて使えるようにすることが、わたしの基本方針だからだ。

 とにかく色々と指導しつつ、実践させて経験を積ませる。
 わたしの家臣には天才的で派手な者はいないが、いぶし銀のような地味でも実力のある者を、多数育てていくのが狙いである。

 また今回の出陣に際し、貞宗は置いていくことにした。
 下手に参戦させることで、貞宗が担っている諜報に関する任が疎かになる可能性を懸念したからでもある。

 とかく情報は大切だ。
 貞宗には越前に残って周辺の情報収集に務めさせて、全てを逐一報告するように命じておいた。

 また景鏡を越前に残したことも重要だ。
 やはり当主が国許に残れば、その隙をつくことができにくくなる。
 景鏡には北ノ庄でどっしり構えてもらって、外交に精を出してもらうのが一番なのだ。

 ……まあ、かつての朝倉家は当主は自ら出陣せず、名代を立てて総大将とすることが通例であり、それを揶揄されたりもしたが、この辺りは見方や考えようで良し悪しなどいくらでも論じられるだろう。
 要はわたしに都合が良ければそれでいいのだ。

 ともあれ準備万端満を持して加賀国へと侵攻するため、まずは堀江景実が城主を務める江沼郡の大聖寺城へと入り、そこから能美郡に向けて一挙に進軍を開始した。

 この国については、一向一揆を抜きには語れない。
 加賀国は今より九十年ほど前までは、守護大名である富樫氏の支配する領国だった。

 しかし応仁元年に勃発した応仁の乱の余波により、当時の当主であった富樫政親は弟と家督を巡って争うことになる。

 この時政親はいったん敗れて加賀国から逃れるものの、のちに浄土真宗本願寺派門徒を中心とした協力を得て、再び加賀へと舞い戻り、弟を追い出して当主の座に返り咲く、という経緯があった。

 当時、この一向宗を指導し、まとめていたのが、越前国の吉崎御坊を本拠としていた、本願寺蓮如である。
 この蓮如なる人物は、浄土真宗を開いた親鸞の嫡流ではあったものの、当時の本願寺は他の宗派や同じ浄土真宗他派が勢力を拡大する一方で、衰退の極みにあったという。
 その本願寺を再興し、本願寺中興の祖とまでいわれる人物だった。

 蓮如は政親に協力したことで、門徒の保護を期待していたのであるが、一向宗の力に警戒した政親は逆にこれを弾圧。

 そんな中、文明十一年十一月になり、室町幕府九代将軍・足利義尚による六角高頼遠征が開始され、政親もこれに従軍。
 世にいう鈎の陣である。

 しかしこれにより戦費が拡大し、負担に耐えかねた国人衆が大いに反発して、一向宗と結んで決起。
 政親は急遽帰国したものの一揆勢の圧力は凄まじく、高尾城に籠って抗戦するものの、むなしく自害するに至った。

 これがいわゆる長享の一揆と呼ばれるもので、加賀一向一揆の始まりである。
 以降、加賀国は国人衆よりも本願寺によって支配されるところとなり、現在に至るまで百姓の持ちたる国として、続いているのだった。

 現在の加賀一向一揆は尾山御坊に本拠をおいて、北陸全体の門徒を統括しているものの、その勢力にも陰りが見え始めてきている。

 元亀三年九月には、越中国尻垂坂において、加賀及び越中一向一揆勢を上杉謙信が破っており、以降劣勢に追いやられていくのである。

 とはいえこの戦いで謙信自身が出張ってくるまでは一向一揆勢優勢であり、その時の指揮官は名将として知られる杉浦玄任だった。
 越前一向一揆の際に、わたしが破った敵将である。

 越前一向一揆を指揮した下間頼照や七里頼周はすでに討ち取っているが、杉浦玄任は加賀へと無事に戻れたようで、今回の加賀侵攻に対し、一向宗を率いて迎え撃ってきたのだった。

 尾山御坊より迎撃してきた杉浦勢は約八千。
 少ないとは言わないが、予想よりも遥かに少ない兵力である。

 それというのも現在の加賀国は指導者であった下間頼照や七里頼周がおらず、統治がうまくできていないのだ。
 そのため能美郡に侵攻してからは怒涛の勢いで、先陣の堀江勢が快進撃を続けたのである。

 何でも副将としてつけた姉小路頼綱などは、手始めに行った御幸塚城攻めで獅子奮迅の働きをみせて、城主であった内田四郎左衛門を討ち取る武功を上げたようで、その首級がわたしの所まで送られてきた。

 首など別段見たくもなかったけど、晴景あたりは天晴れとこれを賞賛し、兵の士気も上がったようなのでまずは良しというところか。
 わたしに半ば脅されていたこともあって、必死に頑張った結果だろう。

 また進軍して分かったが、加賀国の民はおおむね朝倉に対して好意的であった。
 やはり事前の調略の成果であるといえるだろう。
 そのため一揆勢はさほど人数も集まらず、また組織だった行動も取れなかったことで、各個撃破の対象となっていたのだ。

 怒涛の勢いで能美郡を平定すると、続けて加賀の中心である石川郡へと侵攻。

 一向一揆どもを蹴散らしつつ進軍したが、松任城まで至ったところで一旦軍を停止させた。松任城には加賀一向一揆の大将の一人、鏑木頼信がおり、そこを迎撃拠点と定めた杉浦玄任が八千の門徒を率いて尾山御坊から来援したためであった。


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