朝倉天正色葉鏡

第21話 ある冬の月夜

朝倉天正色葉鏡 越甲同盟編 第21話

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 こんなに走ったのは生まれて初めてだろう。

 一面の銀世界。
 真夜中であるというのに、その真っ白な地面は月の光を照り返し、蒼く輝いている。
 普段ならばずっとこの世界に佇んでいても良いくらいの、理想の冬の夜だ。

 しかし今は、そんなことを気にする余裕も無かった。
 名も無き雪の精である少女は、ただひたすらに駆けていく。

「はあ――はあ――はあ――」
「逃がしませんよ」

 雪よりも冷たい声が、背後からかかる。
 振り返っては駄目だと本能が訴えかけ、少女は走り続けた。

「あっ……!」

 自分にとってもっとも得意な積雪の上にあって、足がもつれて転ぶなど、一生の不覚。
 少女は転がりながらに涙する。

「ふん……。妖でも泣くのですか」

 半ば雪に埋もれながら少女が見たものは、反りの無い直刀を今にも打ち下ろさんとしている女だった。
 見間違うはずもない。

 妖である自分から見ても化け物としか思えない力を持った、女。
 巫女装束と呼ばれるものを身に着けている以上、巫女の類なのだろうが、少女にはよく分からない。

 ただこの女が、鳥越城に籠る骸兵を全滅させたのは間違いなかった。
 だからこそ、城から脱出した少女が追われ、殺されようとしているのだから。

「死になさい」

 もはや抵抗などする余力も無く、少女は自らの運命を受け入れる。

「――させぬぞっ!」
「っ」

 しかしその運命は、少女が思っていたものと異なっていた。
 振り下ろされた忍刀を打ち払ったのは、野太刀にしても大きすぎる大太刀。

「――まだ動けたのですか」

 感情を感じさせない声のまま、巫女装束の女はいったん大きく間合いをとる。
 少女と女の間に太刀を滑り込ませ、割って入ったのは一人の武者であった。

「真柄様!?」

具足に身を包んだその姿は屈強な武将の何物でもなかったが、しかし兜の中の顔には皮も肉も無く、白い骨と落ちくぼんだ眼窩が異様な存在感を放っている。
 いわゆるしゃれこうべが、兜の中には収まっていたのだった。

「何をしている早く行け! この場は俺に任せよ!」
「ほう……よく言いますね。亡者の分際で」

 女が動く。
 が、それよりも早く、真柄と呼ばれた亡者はその大太刀を大いに振り回した。

 しかし普段のように自由自在には振るえていない。
 なぜならばその骸の武将の片腕が損傷しており、片手でしかその大太刀を扱えていなかったからである。

 その超重量の太刀は、亡者となってその膂力が大いに増したとはいえ、片手で扱うには難儀する代物だったのだ。

「ぬん……!」

 真正面から振り下ろされた一撃を、しかしあろうことか女は片手でもった忍刀で受け止めてしまう。

「ぬう……っ!」

 避けようと思えば避けれたであろうに、女はわざと受け止めたのだ。
 そしてそれは、ごく単純に女の力がその亡者を上回っていることを示していた。

 その亡者――真柄隆基がこの身となって復活してより、明確な恐怖というものを覚えた相手は、これまでたった二人だけであった。
 彼の主と、その主が敵視している鬼だ。

 どちらも妖であったが、しかし今目の前にいる女は明らかに妖ではなく、ひとの子である。
 それに対して恐怖を覚えるなど――……。

「死者に鞭打つ趣味はありませんが、今の私はとても機嫌が悪いのです。ずっとずっと……不愉快で仕方が無い。ですから」
「むっ……!」

 鍔迫り合いは、明らかに隆基の負けであった。
 両手であったならば多少持ち堪えられたかもしれないが、片手では是非もない。
 力任せに押し返され、体勢を崩す。

 そこに投げつけられる二枚の符。
 それが隆基に触れるや否や、一気に燃え上がった。

「ぐ……おおおおおっ!」
「徹底的に滅ぼしてあげます」

 だがその炎は長続きせず、隆基の全身から消えていく。
 そんな様子を女はやや意外そうに見守っていた。

「亡者にはそれなりの効果がある火符だったのですが……打ち消すとは。やはりただの骸とは違うようですね。何者かの加護を得ているのは明白……。教えていただけますか? そうすれば、成仏させてあげますが」
「――たわけが。この真柄隆基を侮るでないぞ」
「死者にも躾が必要なようですね」

 不愉快そうに表情を歪ませて、女が一歩前に出る。
 合わせるように隆基も大太刀を構えた。

 そしてさりげなく、背後に視線を走らす。
 それだけで、雪に埋もれてそれまで動けなかった少女は、意を察した。

 行けと言っているのだ。
 そもそもそれが、少女の目的だったはず。
 こんなところで諦めていいはずがない。
 せめて、一目――その姿を目にするまでは。と。

 歯を食いしばり、立ち上がる。
 そして何も言わずに駆けだした。

 女の冷めた視線に捉われていることは分かっていたが、気になどしていられない。
 一歩でも前に進むしかなかった。

「無意味なことを。あなたが語らないのであれば、あれに聞くだけです。あれに、私の拷問が耐えられるとも思えませんが……」
「愚かなことを。そういう言葉は、ここを抜いてからほざくがいい――」
「それもそうですね。しかし愚かと言うのであれば、それはあなたのことでは?」

 女は一瞬で間合いを詰め、隆基に迫る。
 慌てず、隆基は迎え撃った。

 天正三年二月。

 雪の降り積もる加賀国白峰山中にて、隆基は死闘に身を投じたのである。

 そして時はやや遡る。


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