朝倉天正色葉鏡

第19話 越前平定

朝倉天正色葉鏡 朝倉継承編 第19話

     ◇

 堀江景忠。

 堀江氏は越前国の越前国坂井郡堀江郷の国人であり、長禄年間に行われた長禄合戦において、朝倉氏と対立して戦った経緯がある。

 その戦で堀江氏当主・堀江利真は朝倉氏七代目当主であった朝倉孝景に討たれており、堀江家は断絶。
 そのため庶家から堀江景用が跡を継いで、以後は朝倉氏家臣としてこれに従うことになった。

 そしてその景用の子が、景忠である。

 景忠は朝倉勢の一員として、加賀一向一揆を討つべく度々加賀に出陣していたが、その間に一揆勢と通じ、朝倉義景に対して謀反を企むことになる。

 果たして永禄十年、景忠謀反の噂と呼応するかのように、一向一揆勢が加賀より越前へと来襲。激戦となった。

 一方で義景は裏切った景忠を討つべく、魚住景固と山崎吉家を大将とした朝倉勢を派遣。
 圧倒的寡兵でありながら景忠は奮戦し、朝倉勢を撃退。
 両者ともに勝敗はつかず、景忠は越前を退去させて能登へと亡命させることで、解決をみたのである。

 またその景忠の堀江氏には興味深い逸話も語り継がれている。

 景忠の父・景用が生まれるにあたって、その父であった堀江景経は笛の名手であったという。
 ある時景経が笛を吹いていると一人の美女が現れ、やがて身ごもった。

 そしていよいよ出産という時になり、妻より決して産屋を覗かないで欲しいと頼まれ、しかし景経はそれを破って覗いてしまう。
 中にいたのは大蛇であり、見られたことを知ったその蛇はいずこかへ消えてしまったが、後に残されたのが景用だった、という伝承である。

 これより堀江氏の家紋には蛇の目が用いられ、景用は妖と混じった子として人ならざる尋常でない能力を発揮したという。

 そしてそれは子の景忠にも受け継がれており、当然その出自はわきまえていた。
 そこに自身を妖であるとも隠さない色葉が現れ、臣従を求めてきたのである。

「これぞ千載一遇の好機か」

 色葉を前にした景忠に、新たな野心の火が宿ったのは疑いようもない。
 越前退去後、一揆勢を率いる将の一人とはなっていたものの、坊官どもにいいように扱われ、不満が無かったといえば嘘になる。

 しかも旧領回復のために今回越前国へと侵攻したものの、旧朝倉領は大坊主らに独占され、景忠は敦賀郡の守備を言い渡されるにとどまっていた。

 これに不満がないはずもなく、織田勢がいずれ越前平定に乗り出すことを見通していた景忠は、率先してこれに降り、一揆勢を討つ心づもりだったのである。

 そこに現れた色葉はそんな景忠の心の内を言い当て動揺を誘い、その上で自身の力をみせつけ、さらには旧領回復を約束して、同心させたのだった。

「裏切りたければいつでも裏切ればいいぞ? わたしは寛大だから許してやる。死んだら誰でも少しは反省するだろうからな?」

 そう言いながら色葉が見せたのは、亡者の群れだった。
 すでに死しているのも関わらず、色葉に付き従う骸骨達。

 色葉はもし裏切ったらああしてやると言っているわけで、全く許す気が無いのは明白だった。
 まだ二十にも届かぬであろう娘とは思えない狂気を持ち合わせているようだったが、どういうわけか景忠は自身の主に相応しいと感じていた。

 自身も妖の血をひいており、その力が秀でていたこともあって、誰かの風下に立つことに我慢がならなかったが、その景忠をして従うに足る人物が、今まさに現れたのである。

 面白い、と素直に感じた景忠は、子の景実と共にその場で色葉に臣下の礼をとった。
 これにより色葉は、堀江親子の調略に成功したのである。

 堀江景忠の調略を終えた時点で、色葉は景鏡に命じて亥山城へ向けての侵攻を命令。
 指示通り景鏡は九頭竜川を渡らずに陣を張り、迎撃に出た杉浦玄任率いる一揆勢と睨み合いになる。

 加賀にほど近い坂井郡に陣取っていた下間頼照は、この機に奥越前に平定に乗り出し、軍を東進。吉田郡を経由して大野郡へと迫った。

 これを機とみた色葉は、それまでに織田城で朝倉景綱の旧臣らを掌握し、更に兵を募って一千にまで兵力を増やし、丹生郡を制圧。敦賀郡より北進した堀江親子の軍一千と共に、龍門寺城、府中城を落として南条郡を攻略。

 府中城は朝倉氏が一乗谷を本拠とするまでの間、越前国の国府であった場所であり、重要な拠点である。

 堀江景忠を先鋒とした色葉勢約二千は、さらに北進して足羽郡に入り、北ノ庄を攻略。そこで進路を東に変え、一乗谷を越えて大野郡へと侵攻。
 先行した景忠は一気に亥山城を落としたのである。

 色葉は後続の本隊として先行した堀江勢と合流すると、その日の内に北進し、九頭竜川で激戦となっていた杉浦玄任の軍勢へとその背後を襲い、未だ踏みとどまっていた景鏡の軍勢とともに挟撃。
 一揆勢はひとたまりもなく川へと追い落とされて壊滅した。

 一方、下間頼照率いる一揆軍二万は、吉田郡で事前に色葉が用意させていた足止め工作にかかり、また大軍であったこともあって進軍が遅れ、ようやく大野郡北袋に至った時にはすでに杉浦玄任は敗退した後であった。

 しかしそのことは未だ伝わらず、頼照は平泉寺に向かって進軍。
 これに対し、大日方貞宗率いる二千の平泉寺衆が出陣し、迎撃の構えをみせたことで下間勢はいったん進軍を止め、両軍は対峙という流れになった。

 杉浦玄任を破った色葉は、潰走する一揆勢を追って九頭竜川流域を西進し、下間勢を大きく迂回する形でその背後に回り込むことに成功。
 一方で景鏡率いる本隊も貞宗の援軍として駆け付け、九頭竜川沿いに陣を張った。

 北側の村岡山城には真柄直隆が籠り、中央には貞宗、南側には景鏡といった構えで一揆勢を包囲する構えをとる。

 この時には玄任敗退の報は届いていたものの、しかし包囲するには圧倒的な兵力不足であった朝倉勢に対し、頼照は副将の下間頼俊に貞宗を、また安居景建に村岡山城を攻めさせ、自身は景鏡の本隊に向かって進軍させ、攻勢に出た。

 ところがここで村岡山城を攻めたはずの安居勢が転進し、突如下間頼俊へと横槍を入れ、この混乱で頼俊は景建によって討ち取られることになる。

 かねてよりこの機に裏切るよう、すでに景建は色葉によって調略されていたのだった。
 景建と共に行動していた朝倉一門衆である朝倉景胤や向久家もこれに従い、頼俊を討ち取った勢いのまま、頼照本隊へと攻め立て、これに呼応して景鏡勢も攻勢に出、しのぎ切れずに頼照勢は後退。

 しかしそこで色葉率いる朝倉勢が待ち構えており、四方八方から攻められ、進退窮まった頼照勢はついに降伏を申し出るに至った。

 色葉は頼照の首と引き換えに一揆勢の助命を許すことを伝えると、頼照はこれに反発。
 玉砕の構えをみせたものの、結局一揆の中での裏切りに遭い、その首はほどなくして色葉の元に届けられることになったのだった。

     /色葉

「これが下間頼照の首で間違いないか?」

 陣中に届けられた坊主の頭は、恨めしそうな顔をしていたが、当然面識の無いわたしにはこれが頼照の首かどうかは分からない。

「間違いありませぬ」

 検分役を務めた景忠の言葉を聞いて、わたしは気の無い返事をした。

「ふうん、そうか。ならもういい。汚いから捨ててこい」
「お、お待ちを」

 慌てたのは景忠である。

「せめて供養なりともいたしてはと……」
「供養?」

 思わぬ言葉に首を傾げる。

「どうしてそんなことをする必要がある? これは敵の首だろう?」
『敵将とはいえ、死した後はこれを丁重に扱うことで、残された兵も安心して色葉様に降ることができるようになるかと』

 アカシアがフォローしてくれて、なるほど、と頷く。
 敵兵にかける情けなど、これっぽちも持っていない。
 しかし利があるというのなら、やらないよりやった方がいいのだろう。

「つまり生ゴミでも使い道はあるというわけか。わかった。景忠、お前に任す。良きにしろ」
「はっ」

 首実検を終え、大方の情報を把握し終えたわたしは、すぐにも次の命を出した。

 越前におけるまとまった一向一揆勢力は、今回の戦でほぼ殲滅することに成功しているものの、各地の平定がなったわけではない。
 特に吉田郡から坂井郡にかけては未だ一向一揆の勢力下にあり、これを駆逐する必要があった。

「景忠、連戦できついかもしれないが、このまま一気に越前を平定するぞ。お前には約束通り、坂井郡全てをくれてやる。切り取り次第ということになるが、いいな?」
「お任せを!」

 話によれば、景忠の先祖は坂井郡一帯に勢力を誇り、越前国でも有力な氏族だったようだ。
 朝倉氏に敗北して没落し、その一角の領地に甘んずる身となった景忠としては、当面の目標は堀江氏が支配していた本来の土地だろう。

 野心に燃える景忠の手勢は一千しかなかったため、貞宗も同行させて三千の兵力で進軍させる。抵抗できる一揆側の組織だった軍事力が壊滅したことで、越前平定は思いのほか早く、八月中には達成された。

 ただここで欲が出たのか景忠は敗走する一揆勢を追って、加賀にまで侵攻し、大聖寺城を囲んだとの報が伝わることになる。

 この大聖寺城は加賀一向一揆の拠点であり、対越前の最前線でもあった。
 逆に越前から加賀に侵攻する際の、橋頭保となる城である。
 かつて朝倉氏が加賀侵攻を行った際に、落としたり落とされたりした城らしい。

 堀江勢はこれを囲んだものの、頑強に抵抗されて落とせずにおり、そんな状況に対してわたしは書簡を送って撤退を許さず、必ず攻め落とすように厳命。
 将来的なことを考えて、ここに拠点を持っておくことはのちのち有利になると思ったからである。

 しかしここで敗北なり撤退なりすれば、せっかく一向一揆を加賀へと押し返し、その意気を挫いたというのに、再び息を吹き返すことになりかねない。
 ここは無理をしてでも落とすべきだと判断したわたしは、自ら援軍を率いて加賀へと入り、大聖寺城を更に包囲した。

 九月に入り、ここで織田信長により、長島一向一揆が壊滅したことを知る。

 信長は情け容赦無く門徒二万を焼き殺したと聞き、アカシアの助言もあって同様の措置を大聖寺城に対して実施。
 城に籠っていた加賀一向一揆勢二千を火攻めにし、逃げ出してきた門徒を待ち構えて皆殺しにさせた。

 この苛烈な所業は一揆勢にとって反攻の気力すら失わせたようで、一向一揆の力はその後、一時的に減退することになった。

 景忠もわたしの行いに相当肝を冷やし、勝手に軍を加賀に侵攻させたことを大いに謝罪。
 わたしに逆らったらどうなるか、何も言わずとも悟ってくれたようで、今後の諸将の独断専行を戒める意味でもちょうど良かったようだ。

 そして天正二年十月には安居景建改め朝倉景建率いる五千の兵が、木の芽峠を越えて敦賀郡へと侵攻を開始。

 敦賀に取り残されていた一揆勢はほぼ孤立無援となっており、また大聖寺城での焼き殺しが伝わっていたこともあって、恐怖した一揆軍は抵抗することなく下り、金ヶ崎城を始めとする敦賀郡の諸城は無血開城された。

 大聖城の時とは違い、初めから降った金ヶ崎城の一揆に対しては寛大に振る舞い、やや極端ではあるものの飴と鞭を使い分けたことで、越前国内での門徒やその他抵抗勢力が一時的に大人しくなったことは間違いない。
 今後は善政なりを敷くことで、民心を掌握する必要があるだろう。

 ともあれこれをもって越前一国は、わたしの手にするところとなったのである。


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