朝倉天正色葉鏡

第13話 越前一向一揆

朝倉天正色葉鏡 朝倉継承編 第13話

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 富田長繁。
 かつて越前朝倉氏に仕えた家臣の一人である。

 しかし今を遡ること元亀三年、近江浅井氏の居城・小谷城を織田信長が攻めた際に、浅井氏と同盟していた朝倉義景は援軍を派遣。
 この時に長繁も朝倉方の武将の一人として従軍していたのであるが、両軍の睨み合いの続く中、突如として織田方の陣へと走り、寝返ることになる。

 しかしこの時、長繁よりも先に信長へと寝返った朝倉家臣がいた。
 それが前波吉継である。

 そして天正元年八月。
 武田信玄の死により後顧の憂いを無くした織田信長は、再び近江浅井領へと侵攻。
 朝倉勢も朝倉義景自ら軍を率い、援軍に向かったものの、奇襲に遭って敗れ撤退。

 しかし織田勢の追撃は凄まじく、刀根坂にて激戦となり、朝倉勢は大敗を喫してしまう。
 この戦いで朝倉家の中核を為した重臣は、ことごとく討死することになる。

 だがそんな家臣らの奮戦の甲斐あって、義景はどうにか一乗谷へと帰還に成功。
 それをさらに追撃する織田勢の案内役として前波吉継は功を挙げ、その後朝倉氏が滅亡すると、その功から越前守護代を命じられ、越前国を支配することになったのである。

 ところがこの人事を妬んだのが越前府中領主となっていた富田長繁であり、両者は対立。
 また前波吉継改め桂田長俊は圧政を敷いたこともあって、長繁は越前国内で一揆を扇動し、ついに天正二年一月、土一揆を蜂起させるに至る。

 その数、およそ三万三千余り。
 自ら大将として一乗谷に進軍した長繁は、長俊を殺害。

 更にはこの勢いにのって、北ノ庄で代官を務めていた木下祐久、津田元嘉、三沢秀次らを襲撃。
 この三名は織田家より派遣されていた代官で、名目上の守護代であった桂田長俊とは違い、実質的な越前支配の権利を有してした者達だった。

 長繁は長俊を討ち、また代官三名を追放することで、事実上の越前国の支配者になったのである。

 ところがやがて、長繁と一揆勢の間で対立が表面化する。
 一揆勢は長繁と手を切り、加賀国より加州大将とも呼ばれた本願寺の坊官・七里頼周を越前へと呼び寄せ、新たな大将に据え、これにより土一揆は一向一揆へと変わっていくことになる。

 七里頼周率いる一向一揆はその数十四万にまで膨れ上がり、長繁を討つべく進軍。
 多勢に無勢で圧倒的不利な状況であった長繁であったものの、奇跡的な勝利で一揆勢を撃破することに成功した。

 長繁は勇猛果敢な猛将であったものの、しかし手勢はそれについていくことができず、結局長繁は不満を募らせた味方から射殺され、討ち取られることになる。
 越前一向一揆は猛威を振るうことになるが、これが天正二年二月のことであった。

 再び話は遡る。
 天正元年八月。

 刀根坂の戦いで大敗を喫した朝倉義景は一乗谷に入るも、すでに手勢も無く、一乗谷を守備していた将は逃げ出す始末。また国内からの援軍も望めなかった。
 その時唯一出陣してきたのが、一門の朝倉景鏡であったという。

「一乗谷はもはや守り切れませぬ。我が領地には屈強で知られる平泉寺衆もおり、再起を図るならばここを捨て、逃れられるがよろしいかと」

 越前国北東部の大野郡を治めていた大野郡司・朝倉景鏡は、主君であった朝倉義景にそう告げた。

 この景鏡という人物は、朝倉義景の父親である朝倉孝景の弟・朝倉景高の子であり、義景とは従兄弟という関係にある。
 朝倉一門の中では筆頭であり、たびたび義景の名代として朝倉勢の総大将を務め、出陣していたのだった。

「げにも」

 義景も了承し、一行は一乗谷を放棄してまず東雲寺、そして賢松寺へと逃れていく。

「いざ囲め」

 しかしこの時、景鏡はすでに織田信長と通じており、義景が頼りとした平泉寺衆もすでに織田方に寝返っていたのだった。

 景鏡は手勢二百騎をもって賢松寺を囲み、義景は無念の自刃を遂げることとなる。
 これにより、朝倉氏は滅んだ。

 主君を裏切り自刃に追い込んだ景鏡はその後信長にまみえるが、主君を裏切り死に追いやったことで、織田家中の者に揶揄され、嘲弄されたという。

 しかしそれでも領地は安堵され、景鏡は名を土橋信鏡と名を改めて、領地経営に勤しむことになる。

 ところが天正二年一月に、富田長繁に扇動された土一揆が発生し、さらには一向一揆に拡大。
 信長に通じて義景を裏切った信鏡は当然一揆の標的となり、自らの居城であった亥山城を、加賀一向一揆の大将であり、越前へと派遣されてきた杉浦玄任に追われ、平泉寺を頼ることになる。

 この平泉寺は四十八社、三十六堂、六千坊の院坊を備え、実に八千の僧兵を要し、全山は石垣で囲まれた要害であると同時に、日ノ本における最大の宗教都市でもあった。
 ある意味で、朝倉氏と肩を並べるほどの勢力を誇っていたことになる。

 その平泉寺であるが、日本国一番の法師大名、とまでいわれた飛鳥井宝光院が大聖院と共に寺内の統括を行っていた。
 その下に波多野玉泉坊などの有力者がいたのであるが、朝倉義景が死に、朝倉氏滅亡の混乱の中で玉泉坊はいち早く抜け駆けて織田信長に通じ、平泉寺の支配権を認めさせたのである。

 しかしここで富田長繁を発端とした越前一向一揆が発生し、今度はこの混乱に乗じて宝光院は玉泉坊を討ち、平泉寺の支配権を奪い返し、さらに信鏡を迎え入れて体制の強化を図ったのだった。

 平泉寺内での内部分裂、またこれまでの奥越前における平泉寺支配への不満、また逆臣である信鏡を受け入れたことなどから、平泉寺もまた一向一揆の標的となってしまうことになる。

 一向衆を率いる本願寺顕如は、越前国にも加賀国に続いて門徒領国を実現させるため、信鏡誅伐と平泉寺破却を越前門徒に命令。

 越前門徒総帥には下間頼照。
 打ち手の大将は杉浦玄任。

 この時動員された一揆は、大挙して大野郡へと押し寄せてくることになる。

 そして地元である大野郡北袋一揆勢を率いるのは、朝倉氏旧臣・島田将監。
 将監は檀ヶ城に立て籠もり、最前線で平泉寺衆と対峙することになった。

「父上、ご出陣されるのですか」

 戦準備に具足に身を固める信鏡へと、今年で十二になった彼の息子が襟を正して尋ねてくる。
 四十九になる信鏡にとって、この息子はずいぶん遅くにできた子の一人だった。
 もう一人、六歳になる弟もいるが、共にこの平泉寺に拠っていた。

「北袋、南袋、七山家の者どもが蜂起したからには、これを鎮めるのも領主たるわしの務めであるからな。そなたらはここで良く見ているが良い」

 信鏡はこれまで幾度にも渡り、義景の名代として朝倉全軍を率い、各地で戦った実績がある。
 姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍や織田・徳川連合軍に敗れた後も、両陣営の戦いは続き、いわゆる志賀の陣が展開された。

 この一連の戦では終始朝倉勢が押しており、堅田の戦いなどでは信鏡が率いた朝倉勢の活躍により、織田方の将・坂井政尚を討ち取る功を挙げている。

 有能で知られる織田方の将にも引けを取らない統率力と、経験に裏付けされた信鏡の軍事行動により、まず一揆勢との戦いは激戦となったものの、緒戦の滝波川の戦いは平泉寺衆の勝利に終わった。

「裏切者とはいえ、さすがは朝倉式部か。この老練ぶり、負けない戦をさせたら難儀だな。加えて平泉寺衆どもは噂に違わぬ屈強ぶりであるとなると、力押しでは分が悪い」

 敗北した将監はいったん一揆勢を退かせ、一揆勢と平泉寺勢は睨み合うことになる。
 将監が動いたのは雪解けを待った四月のこと。

 日中の行動を避け、夜の闇に紛れて一揆勢は村岡山に登り、空堀や竪堀を掘って更には逆茂木を立てて山の城砦化を図ったのである。

 この村岡山は大野郡北袋にある独立峰で、全視界が開けており、北袋一帯はもちろんのこと、加賀方面、また越前国を貫く九頭竜川流域を眺望することのできる山で、七山家の地元一揆を中心に、瞬く間に村岡山城を構築してみせたのだった。

 これに慌てたのが平泉寺である。
 北袋全域を監視することのできる村岡山に城を作られては、当然平泉寺の動きも丸分かりであり、捨て置くことができないと判断。
 平泉寺全軍をもっての村岡山攻撃が検討された。

「村岡山を攻めるのは容易ならぬ。ましてや全軍をもって攻めるなどもっての外。ここは慎重に行動すべきである」

 平泉寺の戦奉行を務めていた信鏡の言に、しかし平泉寺衆は聞く耳持たず、信鏡もやむなくこの攻勢に加わることになった。

 平泉寺衆と信鏡の手勢、合わせて八千三百。
 平泉寺のもてる全軍での村岡山包囲作戦であった。

 村岡山麓に殺到した平泉寺衆の中、宝珠坊が真っ先に名乗りをあげて戦の火ぶたが切って落とされる。
 迎え撃つは島田将監率いる地元一揆勢。

 信鏡が危惧したように、村岡山城を落とすのは容易ではなく、三日三晩の激しい戦闘が続いた。
 状況が膠着する中、先に策を講じたのは一揆勢だった。

 隣国加賀にほど近い七ヶ所の村々をまとめて七山家と称していたが、この七山家の一揆勢の中から決死隊七百が選ばれ、平泉寺奇襲が計画されたのである。

 平泉寺はその背後を尾根に守られた要害であったものの、決死隊は山を登り尾根を進み、老僧や女子供しか残っていなかった平泉寺に対して逆落としを敢行し、奇襲。
 平泉寺は大混乱となった。

 この報を受けた、攻め手の平泉寺勢は背後の危機に慌てて引き返そうとするも、そこをすかさず村岡山の一揆勢は山を下りて攻撃に転じ、またこの機をうかがっていた檀ヶ城の遊撃隊に挟撃されたことで、平泉寺勢は恐慌状態に陥って壊滅。

 果たして信鏡が危惧したように、大敗北を喫してしまったのである。
 そして信鏡も敵中にあって、その命は風前の灯であった。

「さてもな。義景様を裏切った報いか。それとも単に己の器量が不足していたためか。あるいは運か。しかしこの期に及んでは最期まで戦い、乱世の将の一人として死を迎えんと欲するのみ」

 死を覚悟した信鏡は数十にまで討ち減らされた手勢を率い、乱戦の中を駆け抜けた。

 そして奇跡が――あるいは悪夢が、現出したのである。

「朝倉式部殿とお見受けする!」
「応! 一揆どもの大将か! 落ちたものだな島田殿よ!」

 騎馬にて迫ってきた将監の一太刀を受けるべく、信鏡は馬上で自らの太刀を振るう。

 しかしこれまでの連戦で疲労の極みにあった信鏡にそれを受けるだけの力は残っておらず、太刀は弾かれ落馬。
 地に落ちた信鏡へと、一揆の者どもが鎌や鍬など思い思いの武器を手に、わらわらと集まってきた。

「このような者どもに我が首をとられるか」

 無念だと観念したその時、だった。


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