一条信龍とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
甲斐国の戦国大名・武田信虎の八男、もしくは九男とされ、武田信玄の異母弟に当たる。
武田二十四将の一人に数えられる、上野城主。
織田信長の甲州征伐を受けて、武田氏滅亡と共にした。
一条信龍 (いちじょう のぶたつ) | |
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生年 | 1539年(天文8年)? |
没年 | 1582年(天正10年4月2日) |
別名 | 上野介 右衛門大夫 信隆 信竜 |
主君 | 武田信玄⇒武田勝頼 |
家紋 | 武田菱(たけだびし) |
親 | 父:武田信虎 |
兄弟 | 竹松 信玄 犬千代 信繁 信基 信廉 信顕 一条信龍 宗智 松尾信是 河窪信実 信友 勝虎 定恵院 南松院殿(穴山信友正室) 禰々 花光院(浦野氏室) 亀御料人(大井信為正室) 下条信氏正室 禰津神平(元直の長男)室 葛山氏室 菊御料人(菊亭晴季室) |
妻 | 養周院日藤尼 |
子 | 信就 武田信貞 三宅正次室 |
一条信龍とは


















一条家を継ぐ
一条信龍は1539年(天文8年)頃に、武田信虎の子として誕生。
信龍は甲斐源氏の武田信義の次男・一条忠頼を祖とする一条氏を祖とする一条家(鎌倉時代に断絶)の名跡を継ぎ、一条信龍と名乗ることになる。
親族衆となり、本願寺や松永久秀といった畿内勢力を相手にした外交面を担当した。








長篠の戦い

『長篠合戦図屏風』
信龍の武名については、戦場において主に後衛を務めていたこともあり、伝わってはいない。
しかし山県昌景、馬場信春といった武名を轟かせた重臣らと共に、その名を残している。
武田信玄が駿河に侵攻すると、駿河国の田中城代を務めた。
兄・信玄が1573年(元亀4年)に死去すると、その跡を武田勝頼が継承。
そして1575年(天正3年)には勝頼と織田信長が対峙した長篠の戦いが勃発する。
信龍もまたこの戦いに参戦し、佐久間勢を相手に奮闘。二重の柵を破るまでの活躍をみせたという。
しかし長篠の戦い武田方の敗退で終わった。
信龍は馬場信春勢と共に戦場に留まって、主君・勝頼が戦場を離脱するまで踏み止まり、その後退却したとされている。
その後、田中城代を子の信就に譲った上で、自身は駿府城代となった。


甲州征伐と武田氏の滅亡
1582年(天正10年)、織田信長は武田領へと侵攻を開始し、いわゆる甲州征伐が開始される。
信龍は徳川勢の侵攻により、駿河より撤退して上野城へと戻ることになった。
追い詰められた勝頼は新府城を焼き払った上で郡内に向かい、その途中で信龍の屋敷で休息をとったといわれている。
一方の信龍は、徳川家康の三河勢に上野城を包囲されると、手勢300を率いて1万の三河勢に向かって突撃を敢行。
信就と共に戦死した。
























信龍の人物像
一条信龍に関する史料は乏しく、その詳細は分かってはいない。
しかし『甲陽軍鑑』などによれば、「一条殿は、馬鞍武具等、これほど忙しくともいつも新しく、しかも諸国の良い浪人を集めている」と山県昌景が評したとされ、また「伊達者にして花麗を好む性質なり」とも伝わっているという。
武田信玄が最も信頼した人物として、弟の武田信繁があげられるが、信龍もまた信繁と共に、軍事面において最も信頼されていたといわれている。