本多忠真とは戦国時代の武将であり、松平氏(のちの徳川氏)の家臣。
徳川家康に仕えて徳川四天王として勇名を馳せた本多忠勝を教育し、これを補佐した人物であり、また槍の名手であったとして知られている。
三方ヶ原の戦いにおいて殿を務め、討死した。
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生年 | 1531年(享禄4年)もしくは1534年(天文3年) |
没年 | 1573年(元亀3年12月22日) |
別名 | 肥後守 |
主君 | 松平清康⇒松平広忠⇒徳川家康 |
氏族 | 本多氏 |
家紋 | 本多葵(丸に立ち葵) |
親 | 父:本多忠豊 |
兄弟 | 忠高 忠真 |
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本多忠真とは

由羅

本多忠真っていうと……

徳川四天王で有名な本多忠勝の叔父に当たる人物だよ

イリス

由羅

でもあまり知られていないよね

忠勝の父親である忠高と違ってそこまで早死にしたわけではないけれど、ドラマなんかで語られる人物でもないからどうしても、ね

イリス

由羅

だよね~。戦国時代の徳川家臣で本多といえば、どうしても本多忠勝、本多正信、本多重次の三人になっちゃうものね

けれど早死にした兄の忠高に代わって忠勝を教育し、補佐しながら育てた人なんだよ

イリス

由羅

つまり忠勝がのちの四天王の一角となり得たのも、忠真の教育のたまものってことになるんだね
略歴
本多忠真は本多忠豊の次男として、1531年(享禄4年)または1534年(天文3年)に誕生した。
兄に本多忠勝の父として知られる、本多忠高がいる。
1545年(天文14年)、三河安祥城を巡って尾張の織田信秀と戦った安祥合戦において、父・忠豊は主君・松平広忠を逃がすために殿を務め、戦死。
さらに1549年(天文18年)に再び安祥城攻めが行われ、この戦で兄・忠高も討死してしまう。
そのため兄嫁とその子であった鍋之助(本多忠勝)を保護し、読み書きや武士の心得などを忠勝に教育していくことになった。
また1560年(永禄3年)に、桶狭間の戦いの前哨戦である鷲津砦の戦いにおいて、忠勝は織田方の山崎多十郎に討ち取られそうになる。
この窮地に際し、忠真は槍を投げつけて忠勝を救ったとされている。

由羅

忠真がいなかったら忠勝もここで終わっていたのかもしれないんだね

そういうこと

イリス
以降、忠真は忠勝の補佐として、多数の合戦に参加することになった。
その中でも1561年(永禄4年)の水野信元との戦いでは功を挙げ、さらに1563年(永禄3年)に発生した三河一向一揆では多数の本多一族が一揆側につく中、家康方として岡崎に入ったとされている。
そして1572年(元亀3年)、甲斐の武田信玄の西上作戦により、徳川家康は武田信玄と三方ヶ原で戦い、大敗を喫した。
この時忠真は殿を買って出、追走する武田軍に対して斬り込み、かつて父・忠豊がそうしたように討死したという。

由羅

……こうやってみると、本多一族の将って討死しているひとばかりだよね

うん。まあ本多氏といっても家康に仕えた本多一門は色々な系統があって、一応の宗家とされている平八郎家において、忠真は三方ヶ原で、その兄・忠高や父の本多忠豊は織田家との戦いで討死しているし、忠勝の子である本多忠朝も大坂の陣で討死しているものね

イリス