本多忠勝とは戦国時代の武将であり、徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主。
徳川四天王や徳川十六神将に数えられ、その武勇は織田信長や豊臣秀吉にも賞された。
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生年 | 1548年(天文17年2月8日) |
没年 | 1610年(慶長15年10月18日) |
改名 | 鍋之助(幼名)⇒忠勝 |
別名 | 平八郎(通称) |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 本多氏 |
家紋 | 本多葵(丸に立ち葵) |
親 | 父:本多忠高 母:小夜(植村氏義娘) |
兄弟 | 妹:栄子(長束正家室) 異父妹:女(中根忠実室) |
妻 | 正室:於久の方(阿知和玄鉄娘・見星院) 側室:乙女の方(松下弥一娘・月量院) |
子 | 小松姫(真田信之正室)もり姫(奥平家昌正室) 忠政 忠朝 女(本多信之室) 女(松下重綱室) 女(蒲生瀬兵衛室) |
本多忠勝とは


















来歴
桶狭間の戦いと初陣
本多忠勝は1548年(天文17年)に、本多忠高の長男として誕生した。
しかし父・忠高は翌1549年(天文18年)の第三次安城合戦において織田信広と戦い、討死する。
そのため忠勝は叔父に当たる本多忠真を保護され、教育されたという。
忠勝は幼少時より徳川家康に仕え、1560年(永禄3年)に起きた桶狭間の戦いの前哨戦、大高城兵糧入が初陣となる。
元服もこの時に果たした。
14歳の鳥屋根城攻めの時に、初めて敵将の首をあげたとされている。
この時、忠勝は忠真の部隊に属しており、忠真は敵兵を刺しながら忠勝を招いて、この首をとって戦功にしろと薦めるも、他人の力を借りて武功など挙げられるかと言い、敵陣に切り込んで敵の首を取ったとされ、このことから周囲の者は忠勝を只者ではないと感じた、という逸話が残っている。




1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにより、今川義元は横死。
これにより忠勝の主君であった家康は今川より独立する。
家康は尾張の織田信長と結び、清洲同盟を締結。
忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参加し、武功を挙げた。
三河一向一揆

『大樹寺御難戦之図』
ところが1563年(永禄6年)、三河一向一揆が発生。
家康の家臣の多くも一揆勢に加担し、家康は窮地に陥ってしまう。
忠勝の本多一族の多くが一揆側につく中、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗し、家康の敵となることなく仕え続け、功を挙げている。




1566年(永禄9年)には旗本先手役に抜擢。
これにより忠勝は家康居城の城下に住むことになり、旗本の将として活躍することになる。
姉川の戦い

《姉川大合戦之図》
1570年(元亀元年)、朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍との間に姉川の戦いが勃発。
この時、忠勝は無謀にも家康本陣に迫る朝倉軍に対し、単騎による突入を敢行した。
そのため忠勝を救おうと、徳川軍は必死に軍を進め、結果的に朝倉軍を打ち崩したという。
この戦いの中、朝倉家の豪傑として有名な真柄直隆と一騎打ちを演じ、その武名を馳せることになった。






甲斐武田氏との戦い

『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』
甲斐の武田信玄は、1572年(元亀3年)、上洛を目指して家康の所領であった遠江へと侵攻を開始。
一言坂の戦いにおいては、偵察隊として先行していた際に武田軍と遭遇し、撤退するも追撃され、大久保忠佐と共に殿を務め、武田方の馬場信春を相手に奮戦。
坂下という不利な地形でありながら殿を務め上げ、家康本隊は無事に脱出することに成功した。






その後行われた三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景と戦い、これを撃退。
三方ヶ原の戦い自体は徳川方の大敗であったものの、その後犀ヶ崖の戦いにおいて夜襲をかけ、武田軍を混乱させて多数の被害を出さすなどして一矢報いることにも成功している。
1573年(天正元年)の長篠城攻めにおいては榊原康政等と共に武田軍を破り、長篠城へと入ってこれを守った。
1575年(天正3年)の長篠の戦いや、1580年(天正8年)の高天神城の戦いなど、武田軍を相手に戦い続け、武功を重ねていく。
これらの合戦で忠勝は大いに活躍し、敵味方より賞賛されたという。






神君伊賀越え
1582年(天正10年)、本能寺の変が勃発。
これにより家康の盟友であった織田信長が、家臣の明智光秀の謀反にあい、横死する大事件が発生する。
この時家康は、忠勝らなど少数の者と共に、堺に滞在していた。
信長の死を知り、知恩院にて自刃すると主張する家康を忠勝らは説得し、帰国のために伊賀を越えて三河へと至る、いわゆる神君伊賀越えを敢行し、無事に帰国を果たすのに一役を買っている。




小牧・長久手の戦い
1584年(天正12年)、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営による小牧・長久手の戦いが勃発。
この戦いにおいて忠勝は、最初留守を任されていた。
しかし徳川方が苦戦を強いられていることを聞きつけた忠勝は、わずか500名の手勢をもって小牧から駆けつけ、秀吉軍の前僅か500m先に立ちはだかって、更には竜泉寺川に一人で乗り入れ、馬の口を洗わせるなどの振る舞いをし、秀吉軍はそれ以上の進撃を躊躇い、戦機を失ったともいわれている。


忠勝の豪胆な振る舞いは秀吉の耳にも入り、忠勝のことを東国一の勇士と賞賛したという。
また織田信雄から法成寺という刀を賜り、賞された。
豊臣政権下
やがて家康が豊臣の傘下に入ると、1586年(天正14年)に従五位下・中務大輔に叙位・任官されている。
小田原征伐により後北条氏が滅ぶと、家康は関東に移封。
これに伴い、忠勝は上総国夷隅郡大多喜に10万石を与えられた。


関ヶ原の戦いと晩年

『関ヶ原合戦図屏風』
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発。
この時忠勝は家康本軍に従軍しており、本多隊は嫡男・忠政が率いていた。
関ヶ原本戦の前哨戦となった竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めにも参加し、また本戦でも奮戦活躍をみせ、90もの首級をあげたといわれている。
この関ヶ原での功績もあって、1601年(慶長6年)、伊勢国桑名を与えられ、大多喜の地はは次男・本多忠朝に与えられた。
忠勝は桑名に入ってからは藩政のため城下を整備し、城郭を修築し、東海道を整備するなどして、桑名藩創設の名君とされている。
しかし関ヶ原の戦い以降、戦乱は収束に向かい、本多正純といった若く文治に優れた者が家康やその嫡男・秀忠の側近として台頭するようになっていった。
また忠勝自身も病にかかるようになったこともあって、江戸幕府の中心から遠ざかっていくことになる。
1604年(慶長9年)には病にかかるなどして隠居を申し出るも、家康によって慰留。
しかし1609年(慶長14年)には眼病を患い、嫡男の忠政に家督を譲り、隠居した。
そして翌1610年(慶長15年)、死去。享年63。
忠勝の重臣であった中根忠実と梶原忠は殉死したとされている。
「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」
忠勝の遺書の一節とされている文であり、
「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」
この辞世の句と共に、家康に対する忠誠心の深さを読み取ることができる。
本多忠勝の人物像
・忠勝の使用した天下三名槍の一つ、蜻蛉切。飛んできた蜻蛉が穂先に触れると真っ二つになったことからこの名前がついた、といわれている。
・忠勝が使用した兜として、鹿角脇立兜が知られている。
・鎧は黒糸威胴丸具足、愛馬として三国黒。この三国黒は関ヶ原の戦いにおいて銃撃に遭い、死亡した。
・忠勝はその武勇に優れており、生涯経験した合戦はおよそ57回。しかし一度も傷を負わなかったとされている。
・その采配振りに、忠勝の指揮のもとで戦うと、背中に盾を背負っているようだ、と称えられたという。
・「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」一言坂の戦いにおいての戦い振りを、小杉左近の狂歌によって賞賛されている。
・織田信長には「花も実も兼ね備えた武将である」とされ、豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称された。
・その勇士振りを、東の本多忠勝、西の立花宗茂と、勇将を引き合いに称されたとされている。
・同じ徳川四天王の一人とされる榊原康政とは同い年で、仲が良かったという。
・同じ本多一族でも、本多正信とは反りが合わなかったといわれており、「佐渡守の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言っていたとも伝わる。
・関ヶ原に戦いにおいて西軍に与した真田昌幸、真田信繁親子の嘆願を、娘婿の真田信之と共に嘆願し、拒否し続ける家康もついに折れ、真田親子は紀伊高野山九度山に蟄居となったといわれている。
・死の直前、小刀で自分の名前を持ち物に彫っていた際、手元が狂って左手を傷つけてしまい、生涯一度も戦場で傷を負うことの無かった忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟いたといい、事実その通りになったとされている。
本多忠勝画像
