服部正重とは江戸時代の旗本。徳川氏家臣。
通称は半蔵。いわゆる服部半蔵の一人。一般的に服部半蔵の名で知られている服部正成の次男である。
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生年 | 1580年(天正8年) |
没年 | 1652年(承応元年) |
別名 | 通称:半蔵 |
主君 | 徳川家康⇒徳川秀忠 |
氏族 | 服部氏 |
家紋 | 源氏車に並び矢筈 |
親 | 父:服部正成 母:長坂信政女子 |
兄弟 | 正就 正重 正広 女(中根正清室) |
妻 | 大久保長安長女 |
子 | 正吉 |
服部正重とは












来歴
服部正重は1580年(天正8年)に服部正成の子として生まれた。
1600年(慶長5年)、石田三成と徳川家康との間で勃発した関ヶ原の戦いが、初陣となったという。
この前日、徳川の陣にいた正重は父・正成の初陣の時の話や、活躍を聞いたとされており、翌日行われた合戦の前に敵陣へと侵入し、寝込みを襲って敵の侍大将の首をあげ、家康へと届けたとされている。




また1614年(慶長19年)に、徳川氏と豊臣氏による大坂の陣が勃発すると、父の跡を継いでいた兄・服部正就が戦場にて行方不明となり、その代わりとして服部家の家督を継承。さらには服部半蔵の名を襲名した。


服部家は服部半蔵の名と共に、伊賀同心頭領として知られているものの、先代の兄・正就への抗議騒動に関連して伊賀同心支配の任を解かれてしまっており、正重は大久保長安と共に佐渡金山での政策を担当したといわれている。
しかし1612年(慶長18年)、大久保長安事件が発生。




この事件で正重は特に咎めを受けることはなかったが、目付から佐渡にて待てと命じられたにも関わらず、佐渡島対岸の出雲崎にて目付一向を出迎えたことが家康の逆鱗に触れ、三千石は没収され浪人となることを余儀なくなされたという。


正重はその後流浪して越後国内の三藩で家来として仕えることになるが、そのどの藩も取り潰しやお家断絶などの憂き目に遭い、その度に浪人となってしまうことになる。




5年の流浪の末、兄・正就の正室の実家であった久松松平家の松平定綱に召抱えられることとなり、2千石を得、桑名藩の家老として服部家は存続することになる。
そして1652年(承応元年)に死去した。享年73。

