服部正成とは戦国時代の武将。徳川氏の譜代家臣で徳川十六神将の一人。
通称の服部半蔵の名で知られている人物である。
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生年 | 1542年(天文11年) |
没年 | 1597年(慶長元年11月14日 ) |
別名 | 通称:半蔵 半三 石見守 通名:弥太郎 渾名:鬼半蔵 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 服部氏 |
家紋 | 源氏車に並び矢筈 |
親 | 服部保長/正種 |
兄弟 | 女子(高山飛騨守室) 保元(次右衛門)? 女子(上島茂保室) 女子(松本大学助室) 保俊(市平) 保正(源兵衛) 勘十郎 久太夫(久左衛門) 正成(弥太郎) 正刻(平助・半助) 女子(中根正重(正清)室) 女子(金田庄之助室) |
妻 | 長坂信政女子 |
子 | 正就 正重 正広(郷八郎) 服部康成? |
服部正成とは










来歴
服部氏と徳川氏
服部正成は1542年(天文11年)に服部保長の五男として、三河国伊賀にて誕生した。


父・保長はもともと伊賀国の土豪だったが、当時の伊賀には服部氏の一族である千賀地、百地、藤林といった三家があったものの狭い土地であったため、保長は服部姓に復姓した上で上洛し、室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えることになったという。
そんな折に、三河国の戦国大名であった松平清康が、三河国を平定。
将軍に謁見するために上洛したところ、保長と面識を得てこれを気に入り、この時の縁をもって松平家に仕えることになったといわれている。
正成はその後、父の跡を継いで家督を継承し、徳川家康に仕えた。
家督継承後
今川氏滅亡の際の遠江掛川城攻略戦や、朝倉・浅井連合軍と戦った姉川の戦い、武田信玄の西上作戦における三方ヶ原の戦いなどに参加し、軍功を挙げたという。
1573年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いにおいては、徳川軍は侵攻した武田軍に対し、大敗を喫することになる。
しかしこの戦いで正成は一番槍の武功を立て、更には敗走する家康を守り、これに追いついた敵と格闘戦に至り撃退。浜松城に帰還後は味方を鼓舞するために再び城外に打って出、敵と一騎打ちに及んで討ち取った首を手に戻ったという。




1575年(天正3年)には長坂血鑓九郎信政の娘と婚姻し、1576年(天正4年)には長男・正就、1580年(天正8年)には次男・正重が誕生している。
信康切腹事件
1579年(天正7年)、家康の嫡男であった信康が、正室の父親である織田信長に疑われ、二俣城にて自刃に追い込まれるという事件が発生する。
この時、正成は検使として使わされて、介錯を命じられた。
しかし正成は、三代に渡って恩を受けているその主に対し、刃を向けることはできないと言って涙を流し、つには介錯の務めを果たすことができなかったという。
これに対し家康は、鬼と呼ばれていた正成であったとしても、主君の子は斬れないのか、と言って逆に正成の評価を上げたとも言われている。






神君伊賀越え
1582年(天正10年)、甲州征伐によって武田氏を滅亡させた後、家康は少数の家臣を伴って信長を安土城に訪れ、その後上方を旅行したとされる。
ところがその折、織田家重臣・明智光秀の謀反である、本能寺の変が勃発。
この時家康一向は堺におり、信長がすでに討たれたことを知って、窮地に陥ることになる。
家康は脱出を図り、甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける、いわゆる神君伊賀越えに際して正成は、自身の先祖の出自が伊賀であることもあって、伊賀や甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させたことで一向は脱出を成功させたという。
この時、一向を警護した者達は伊賀同心、甲賀同心として江戸幕府に仕えることになる。
天正壬午の乱
同年、織田信長の横死に伴い、武田氏遺領を巡る天正壬午の乱が勃発。
正成は家康に従って、甲斐へと出陣。
徳川軍は北条軍と対峙したため、家康は北条氏直に対して甲府盆地の各地に砦を建設し、正成は伊賀衆を率い、勝山城や右左口砦、金刀比羅山砦に配置されて、甲斐と駿河を結ぶ中道往還を監視したとされる。
伊賀忍者頭領として
1584年(天正12年)には小牧・長久手の戦いが、豊臣秀吉との間に勃発。
この時正成は、伊賀・甲賀衆100名を指揮し、鉄砲にて豊臣軍を撃退するなどして功を挙げている。
1590年(天正18年)になると、秀吉は後北条氏に対して小田原征伐を開始。
家康もこれに出陣し、正成も従軍した。
正成は武将であったものの、父・保長が伊賀出身であり忍びであったこともあって、徳川氏に召抱えられた伊賀忍者を統率する立場になっていったとされる。
1592年(文禄元年)には肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍。


そして1596年(慶長元年11月4日)に死去。
江戸麹町清水谷の西念寺に葬られたという。
その家督は、嫡男・正就が継承した。
半蔵門


服部家の家臣(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道沿い一帯が旗本屋敷にて固められていたことに由来している。
この半蔵門は大手門とは正反対の位置にある、いわゆる搦手門であり、江戸城に万が一のことがあった際に、江戸城に唯一直結する街道であった甲州街道から幕府天領であった甲斐へと、将軍を安全に避難させるためのものであったという。
服部正成画像
