原昌胤とは、戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣。
武田信玄・武田勝頼の親子二代に渡って仕え、長篠の戦いにて戦死した。












来歴
昌胤は原昌俊の嫡男として、1531年(享禄4年)頃に生まれたとされている。
昌胤の出自である原氏は、もともと美濃土岐氏の庶流とされており、同じ武田家臣には原氏を名乗る原虎胤がいるが、こちらはもともと千葉氏出身であり、昌胤とは同族ではない。
1549年(天文18年)に、父・昌俊が死去すると、翌1550年(天文19年)に家督を継いで陣馬奉行となり、120騎を率いたとされている。
文書の中に昌胤の名を見ることができるようになるのは1556年(弘治2年)であり、信濃侵攻の際の甲斐衆小池氏が下伊那出陣の折の証文の中に、その名がでてくる。
主君・武田信玄の側近の朱印状奏者として、その名を確認できる。
また1561年(永禄4年)に行われた西上野進行において、跡部勝資、曽根虎長、土屋昌続らとともに上野国衆への取次を務めていたようで、一之宮貫前神社や高山氏、小幡氏、高田氏らの取次ぎを昌胤は担当していた。
更に1567年(永禄10年)には、上野国衆からの起請文を担当するなどして、名を残している。
1569年(永禄12年)、武田氏と今川氏はこれまでの同盟関係から一転、敵対関係となり、駿河侵攻が開始。この中で今川方であった富士氏は大宮城を開城し、昌胤は市川昌房とともに富士郡支配に携わった。
このように各所で名を残していたものの、昌胤は一時期失脚の憂き目にあったとされている。
ただし、その経緯や時期などは分かってはいない。




もっとも後北条氏の家臣であった臼井原氏麾下の完倉兵庫介の仲介により、1570年(元亀元年)~1572年(元亀3年)の間の期間中に、赦免されたという。
そして1575年(天正3年)に織田・徳川連合軍との間に行われた長篠の戦いに参加して、戦死することになる。

『長篠合戦図屏風』
原昌胤画像

