遠藤直経とは戦国時代の武将であり、浅井氏の家臣。
通称の喜右衛門の名でも知られ、遠藤喜右衛門として史料や講談などにその名を残している。
姉川の戦いで織田信長の暗殺を謀り、敵陣に侵入。失敗し、斬首された。
生年 | 1531年(享禄4年) |
没年 | 1570年(元亀元年6月28日) |
別名 | 喜右衛門 |
主君 | 浅井久政⇒浅井長政 |
親 | 父:遠藤主膳 |
子 | 孫作 喜三郎 仁兵衛 |
遠藤直経とは












浅井氏家臣として
遠藤氏
遠藤直経は1531年(享禄4年)に近江国坂田郡に生まれた。
直経の遠藤氏は、遡れば鎌倉武士の出身であったとされており、鎌倉時代に近江国に下向して、所領を得たとされている。
代々の当主は須川山一帯を治めて、須川城を居城としていた。
遠藤氏はもともと赤尾氏などと同じく、浅井氏の譜代の家臣だったという。
直経は浅井氏当主であった浅井長政の傅役的な存在であったようで、長政が幼い頃より相談役を務めていたとされる。
そのため浅井長政からの信頼は厚く、浅井政澄らと共に長政が真っ先に相談する相手であった。
六角攻めを決める時も、長政はこの二人にまず相談したという。
このように主君の信頼を得ていたこともあってか、直経は浅井氏の居城であった小谷城下に居館を持っており、所領は子に任せて小谷城下に在番していた。
信長暗殺計画その一
直経は早くから織田氏当主・織田信長の才能を見抜いていたとされ、信長の暗殺計画を長政に進言したことがあったという。
これは浅井氏と織田氏が同盟関係にあった頃の話であり、信長の接待役を命じられていた直経は、信長を直接知ることができ、そのような決断に至ったとされる。
しかし主君・長政は、直経の進言を却下。
信義を重んじた長政の命に背くことはできず、信長暗殺計画は未遂に終わった。




姉川の戦い
朝倉氏との関係
浅井氏と同盟を結んでいた織田氏は、浅井氏との約定を破って浅井氏の盟友・朝倉氏攻めを開始。
この時、浅井氏は織田氏と朝倉氏との間で板ばさみとなり、織田氏との婚姻関係を重視すべきか、それともかつて恩を受けた朝倉氏との旧縁を取るべきかと、その決断を迫られていた。
この時直経は、織田氏につくべきであると主張したとされている。




その理由として、一つは旧友である朝倉氏当主・朝倉義景は優柔不断で頼り甲斐が無く、直経が愛想を尽かしてしまっていたこと。
もう一つは織田信長について、かつて暗殺を進言したほど危険していたことは、逆にいえば信長のことを高く評価していたからであり、そういった事情により直経は織田氏との関係を続けるべきだと主張したとされている。




この時、浅井家中は親朝倉派と親織田派とに分かれており、浅井長政の父で、すでに隠居しながらもまだ大きな発言力を有していた浅井久政や、譜代家臣で重臣であった赤尾清綱などは朝倉寄りの立場をとったこともあり、結果的に浅井氏は朝倉氏との関係を選ぶことになった。
信長暗殺計画その二
朝倉領へと攻め込んだ織田軍は、浅井氏の裏切りにより、越前国金ヶ崎において窮地に立たされる。
このいわゆる金ヶ崎の退き口を経て、窮地を脱した信長は再起を図り、改めて近江国へと進軍。
朝倉氏より援軍も駆けつけ、1570年(元亀元年)に姉川の戦いが勃発した。
この戦いにおいて、浅井・朝倉連合軍は敗退。
直経は浅井方の敗色が濃厚になった時点で、信長の暗殺を決意し、一計を案じることになる。
浅井方の武将である味方武将・三田村左衛門の首級を掲げると、織田方の武将に成りすまし、敵陣へと侵入。
信長の本陣の数十メートル手前というところまで迫った。




しかし竹中重矩(竹中半兵衛の弟)、もしくは不破矢足に見抜かれて捕縛され、斬首された。






この姉川の戦いは浅井氏の大敗に終わるも余力はあり、その後も信長を苦しめ続けることになるが、それでも浅井長政がもっとも信頼したとされる遠藤直経の死は、浅井氏にとって大きな痛手となったといわれている。
遠藤直経画像

