伊達氏とは鎌倉時代から江戸時代にかけて、東北地方南部を本拠とした一族。
藤原北家山蔭流を称するが、あくまで自称に過ぎず、格たる根拠は無いという説もある。
東北だけでなく、伊予国や但馬国、駿河国に庶流が存在した。
伊達氏(だてし) |
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本姓 | 藤原北家山蔭流中村氏(自称) |
家祖 | 伊達朝宗 |
家紋 | 仙台笹 |
出身地 | 常陸国伊佐郡? |
著名人物 | 伊達稙宗 伊達晴宗 伊達輝宗 伊達政宗 |
支流 | 田手氏 桑折氏 大條氏 小梁川氏 紀州伊達家 |
伊達氏とは
伊達氏といえば、東北地方の戦国大名として有名だね。特に伊達政宗!
確かにね。ただ伊達氏は政宗だけが著名なわけではなく、その父の輝宗や晴宗、稙宗といった面々も名を残しているわよ
稙宗・晴宗父子で争った天文の乱なんかは有名だものね
そうね。そんな伊達氏だけれど、その出自は魚名流藤原山蔭の子孫とされているわ
平安時代前期の人物で、いわゆる公卿ね。藤原北家に連なる家系になるのだけど
藤原氏といえば、中臣鎌足(藤原鎌足)が有名でしょ? その子の藤原不比等なんかも。教科書にも出て来るし
藤原北家というのは、藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする家系をいうのよ。つまり伊達氏は遡れば藤原氏にいきつく、というわけね
まあ、これが正しければね。というのも藤原山蔭の子孫というのはあくまで自称に過ぎず、確たる証拠があるわけではないのよ
鎌倉時代~室町時代
伊達氏の家祖は伊達朝宗。
1189年(文治5年)、常陸入道念西が源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで息子の為宗、宗村、資綱、為家らと共に功をあげ、頼朝より伊達郡の地を与えられたという。
この常陸入道念西が伊達朝宗を名乗ったことが、伊達氏の始まりだといわれているわ。けれどこれには諸説あって、はっきりとしてないのが現状よ
南北朝時代の伊達行朝の代において、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属したとされ、行朝は結城宗広らとともに式評定衆になったとされている。
1335年(建武2年)の中先代の乱では、建武新政軍として北条方を討つなどして活躍した。
同年、北畠顕家が足利尊氏を討つべく上京。伊達氏もこれに従ったとされる。
南北朝時代、という名前の通り、この時代は北朝方と南朝方に分かれて争ったのだけど、北朝といえば足利氏であり、伊達氏はこの時南朝方についていた、というわけね
でも確か南北朝時代って、南朝が北朝に合流することで話がまとまったんだよね
新田義貞や北畠顕家が討死して、徐々に南朝方の勢力が弱まっていった結果ね。ともあれ伊達行朝は所領へと戻り、次の代である伊達宗遠は出羽国長井郡を攻めて領有するなど、着実に勢力を拡大していったのよ
宗遠の子である伊達政宗の時代には、鎌倉公方・足利満兼が領土の割譲を求め、政宗はこれを拒んで鎌倉府に対して反旗を翻している。
この政宗は初代陸奥仙台藩主となる藤次郎政宗とは別人よ。ご先祖様には違いないけれど。この伊達氏9代目当主である政宗はその事跡から、伊達家中興の祖と称えられていて、のちの藤次郎政宗はこれにあやかって、同じ名をつけたといわれているわ
陸奥や出羽は当初、鎌倉府の管轄ではあったが、足利氏一門である斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになり、伊達氏は形式上ではあるが、その配下となった。
そして幕府と鎌倉府の対立が深まってくると、伊達氏は幕府に接近。京都扶持衆となる。
1438年(永享10年)の永享の乱においては鎌倉公方討伐が命じられ、伊達氏は幕府に接近したことでその地位や勢力を強めていった。
1483年(文明15年)には第12代当主である伊達成宗が上洛し、室町幕府将軍・足利義政や日野富子らに砂金や太刀、馬などを献上したとされ、その規模は当時では随一であったという。
戦国時代
室町時代、陸奥や出羽は守護不設置であり、探題・国人による支配だったの。ところが伊達稙宗の代で異例の陸奥守護に補任されることになるわ
勢いづく稙宗は、主筋にあたる大崎氏の内乱鎮圧のため、大崎義直の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動。その代償として二男・義宣を入嗣させることに成功した。
これにより、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことになったといえる。
このように勢力拡大に成功する稙宗であったが、その専制を快く思わない家臣団の一部により、伊達晴宗を擁立して稙宗の追放を目論むことになる。
この争乱は姻戚関係を結んだ奥羽の諸大名を巻き込む大乱となった。
結果的に、晴宗方の勝利で乱は終結。
しかしこの内戦により伊達氏は疲弊し、勢力下にあった諸大名が独立していくことになってしまう。
晴宗は居城を米沢城に移し、幕府に奥州探題への補任を求めるなどして態勢の立て直しを図ることになる。
安土桃山時代
1584年(天正12年)、伊達政宗が17代目当主となる。
ここでいよいよ政宗の登場だね! ……でもこの時代って、もう
織田信長もいないんだよね……
政宗は強硬な領土拡張政策を推し進め、その領土は最大で114万石に達したという。
1589年(天正17年)には摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、しかしこれは豊臣秀吉による惣無事令に背く行為であったことから、政宗が秀吉に服属後、奥州仕置きにより会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収されている。
それどころか葛西大崎一揆を政宗が扇動していたということがバレて、1591年(天正19年)には国替えに及び、米沢72万石から岩手沢58万石に減封されているわ
まあそれでも豊臣家において、ベスト10以内の大大名だったのだけれどね
江戸時代
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて、政宗は徳川家康に味方し、その功により加増されて62万石余の大藩となった。
その後、江戸時代を通じて家格は維持された。
伊達氏は徳川政権下にあっては外様大名ではあったが、別格とされ、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされていたという。
その後、新田開発なんかで実際の石高は100万石に達したそうだけど、4代藩主・綱村が作ったた莫大な借金や、買米制による米相場依存の財政体質、7代藩主重村の失政などによって、藩の運営は次第に苦しいものになっていったらしいわ
明治時代以降
1868年(慶応4年)、戊辰戦争において仙台藩は会津藩に味方し、薩長軍に敗北する。
このため朝敵とされ、領地は没収されてしまったそうよ。その後改めて28万石が与えられたそうだけど、これでは従来の家臣を養うことはできず、家禄を減らしたり帰農を命じたりして人員削減したりする羽目になったの
つまりお給料減らしたり、リストラしたり……ってこと?
現代風に言えば、そういうことね。ちなみに伊達邦直や伊達邦成、片倉邦憲といった領主たちは、自身の家臣団を救済すべく、北海道に移住して開拓に従事することになるわ
そうなんだ。ちなみに伊達氏って、現代ではどうなっているの?
仙台笹

【仙台笹】正確には竹に雀の紋、といったところなのでしょうけれど、この家紋が仙台藩伊達氏の家紋として知られていることから、俗称として仙台笹、という名称の方が一般的になっている、というわけね
この家紋って上杉氏の家紋である上杉笹によく似ているよね
さもありなん。だって仙台笹の由来は上杉笹にあるのだから
越後守護で、越後上杉家8代目当主であった上杉定実が、伊達氏から養子を迎える、という話になった時に、伊達実元へと上杉笹を送ったそうよ。それをアレンジして使用するようになったのが、始まりというわけね
その通り。そのうち宗家の方でもさらにアレンジした竹に雀の紋を使うようになって、今の仙台笹になったというわけね。ちなみに伊達氏は仙台藩以外にも分家の氏族が存在するから、例えば伊予国宇和島伊達家ならば宇和島笹、伊予吉田藩伊達家ならば吉田笹といって、それぞれ竹に雀の紋でありながら意匠が異なったものを使用しているわ
いっぱいあるんだねえ……。あ、でもこの仙台笹になるまではどんな家紋を使用していたの? あったんでしょ?
読んで字の如く、よ。これは仙台市の市章にもなっていて、比較的デザインが近いわね。由来は伊達朝宗が奥州藤原氏を征伐した際に、源頼朝から拝領した家紋が始まりで、これは幕紋二引両というものだったのだけれど、後年竪三引両に改めたそうよ
朝宗の代から、ということは、この家紋が一番古くて由緒正しい感じだね
伊達氏は他にもたくさん家紋を使用していて、たとえば『雪に薄 』といった珍しいものや、政宗が秀吉から拝領したといわれている『十六菊 』や『五七桐 』。また細川忠興から政宗が貰ったという『九曜』。他には近衛家より拝領した『鴛鴦の丸 』や『牡丹』。その牡丹の意匠を変えた『蟹牡丹』。他にも『薺』や『日の丸』といったものも見受けられるわね
まあ、一般的には仙台笹と、竪三引両を伊達氏の家紋として覚えておけばいいんじゃないかしら