浅井初とは戦国時代から江戸時代の女性で、若狭小浜藩の藩主となった、京極高次の正室。
姉に豊臣秀吉側室の浅井茶々(淀殿)がおり、妹に徳川秀忠正室の浅井江(崇源院)がおり、初を合わせて浅井三姉妹と呼ばれている。
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生年 | 1570年(永禄13年)? |
没年 | 1633年(寛永10年) |
別名 | 御鐺(おなべ) 常高院 |
家紋 | 三盛亀甲に花菱(みつもり きっこうに はなびし) |
親 | 父:浅井長政 母:お市の方(織田信長妹) |
兄弟 | 万福丸 万寿丸 茶々 督(江) くす 刑部卿局 |
夫 | 京極高次 |
子 | 養女:初姫(徳川秀忠の四女) 古奈(氏家行広の娘) |
浅井初とは










小谷城落城から北の庄城落城まで
浅井氏の滅亡
浅井初は1570年(永禄13年)頃、近江国小谷にて誕生した。
この頃浅井氏は朝倉氏と共に織田氏と争っており、1573年(天正元年)に父である浅井長政は伯父である織田信長と小谷城にて戦い、長政や祖父・久政の自害をもって落城に至ることになる。
兄であった万福丸は捕らえられて処刑されるものの、母である市と姉妹は藤掛永勝によって救出されたといわれている。














柴田勝家
1582年(天正10年)、父・長政を討った伯父の織田信長は、家臣の明智光秀の謀反に遭い、本能寺の変に横死。
織田家中が揺れる中、織田家の後継者を決める清洲会議において、織田氏の重臣であった柴田勝家と、母・市の再婚が決定し、勝家の根拠地であった越前北の庄城へと移ることになる。
しかし勝家は羽柴秀吉と対立し、1583年(天正11年)に両者の決戦である賤ヶ岳の戦いが勃発。
勝家はこれに敗北し、北ノ庄城は落城。
母・市と共に勝家は自害した。
三姉妹は落ち延び、秀吉の庇護を受けるようになったという。


京極高次
1587年(天正15年)、秀吉に計らいによって、京極氏の当主であった京極高次と結婚することになる。
京極氏は浅井氏にとってもともとは主家にあたる家であったが、曽祖父である浅井亮政の代で下克上により、浅井氏が取って代わった経緯があった。
その後京極氏は浅井氏の庇護のもとにおかれ、高次も浅井氏の居城で生まれたとされている。
高次の母親は祖父の浅井久政の娘の浅井慶であり、初とは従兄妹の関係であった。












大津城の戦い

『関ヶ原合戦図屏風』
豊臣秀吉が死去したのちの、1600年(慶長5年)に、豊臣政権の中核を担っていた五奉行の石田三成と、五大老の徳川家康が対立し、関ヶ原の戦いが勃発。
夫・高次は三成側である西軍につくとみせかけながら、大津城に籠城して東軍に転じた。




この事件は大坂城にいた姉の淀殿(浅井茶々)を驚かせ、初らを助けるために、血族である海津殿(浅井鶴千代)を大津城に派遣して停戦よ降伏を求めたとされている。
しかし大津側はこれを拒否。
そのため西軍側は報復として、毛利元康を大将に九州方面の諸大名を大津城に向かわせ、15,000の兵をもってこれを包囲したという。


しかし大津側の必死の抵抗により城攻めはうまくいかず、結果的に開城して降伏するものの、ここで西軍の一軍を足止めしたことで関ヶ原本戦に間に合わず、大津城の戦いは西軍の局地的勝利に留まり、大局的には東軍を戦略的勝利となったといえる。
そのため高次はその功績を評価され、若狭一国を与えられることになった。




大坂の陣

『大坂夏の陣図屏風風』
1609年(慶長14年)、夫の京極高次が死去。
これにともない初は出家して、常高院と号した。
この頃には大坂の豊臣氏と江戸の徳川氏の対立が深まってきており、両者に姉や妹が嫁いでいた初は、その仲介役として奔走することになる。
1614年(慶長19年)に始まった大坂の陣においては、徳川の阿茶局と共に和議を取りまとめるなどして、両家は講和。
しかし翌年の1615年(慶長20年)には再び両家は争うことになり(大坂夏の陣)、これをもって豊臣家は滅亡に至った。


そして1633年(寛永10年)に、江戸屋敷にて死去。享年64。
墓所は福井県小浜市(若狭)の常高寺。
この寺は後瀬山山麓にあって、かつて夫・高次が入城した後瀬山城があった場所でもある。


浅井初(常高院) 画像
