朝倉氏景とは室町時代から戦国時代にかけての武将であり、越前国の戦国大名。第8代朝倉氏当主。
父の代において下克上にて手に入れた越前国の支配を、完成させた人物としても知られている。
また一門の当主において、先祖にあたる3代目当主にも同名の人物がいる。
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生年 | 1449年(文安6年4月5日) |
没年 | 1486年(文明18年7月4日) |
改名 | 阿君⇒氏景 |
別名 | 孫次郎 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 父:朝倉孝景(英林孝景) 母:朝倉将景の娘 |
兄弟 | 氏景 景明 孫四郎 景総 教景(以千宗勝) 時景 景儀 宗滴 |
妻 | 宝林慈珍大姉 瑞渓妙祥大姉 |
子 | 貞景 景宗 |
朝倉氏景とは




応仁の乱
1449年(文安6年)に朝倉孝景(英林孝景)の嫡男として誕生する。
1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱において、氏景は父と共に西軍に属して戦うも、東軍からの寝返りの交渉を受け、孝景は越前に戻ることになる。
一方で氏景は寝返りを気取られないよう、京都に残ることになった。








1471年(文明3年5月21日)に、室町幕府より越前守護職の確約を認めた書状が届いたことで、孝景は公然と東軍への寝返りを実行。
氏景は西軍陣営より抜け出し、東軍の細川成之の屋敷を通じて越前へと戻ることになる。
越前支配の確立
孝景は苦戦しながらも連勝を重ね、越前国をほぼ平定するも、甲斐敏光や二宮氏や斯波義寛の反撃を受けて苦境に立たされる中、1481年(文明13年)死去する。










父の死により家督を継いだ氏景は、叔父である経景や光玖、景冬と協力して、襲来した甲斐氏と戦いこれに大勝し、越前国の支配を確立させることになる。






越前守護職を得、下克上によって手に入れた越前国でしたが、そういった経緯であったため、旧主であった斯波義寛より守護職返還の訴訟がたびたび起きることになる。








氏景はまず越前における仏教勢力であった平泉寺と結び、宗教の力を背景に支配を図った。
またかつては敵対関係にあった斯波義廉の子を擁立し、それに鞍谷公方を継がせて足利義俊として越前国の名目の上での国主とすることで、相対的に斯波氏の影響力を弱め、斯波氏の守護職奪還を阻んだとされている。






氏景は家督を継いでわずか5年、38歳の若さにて急死。
家督は嫡子であった貞景が継いだもののまだ若く、再び朝倉氏内において火種がくすぶることになる。
朝倉家歴代当主
第1代 朝倉広景 1255年~1352年
第2代 朝倉高景 1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
第6代 朝倉家景 1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
第11代 朝倉義景 1533年~1573年