朝倉貞景 ~朝倉氏全盛期の基礎を築いた、第9代当主

朝倉貞景 ~朝倉氏全盛期の基礎を築いた、第9代当主

 朝倉貞景とは室町時代から戦国時代にかけての武将であり、越前国の戦国大名。越前朝倉氏第9代当主。
 父の代で確立した越前支配を確固たるものとし、内憂外患を打ち払って朝倉氏の全盛期の基礎を築いた人物である。
 また歴代当主の4代目にも、同名の人物が当主としていたことで知られている。

朝倉貞景(あさくら さだかげ)
三盛木瓜
生年1473年(文明5年2月5日)
没年1512年(永正9年3月25日)
別名孫次郎
家紋三盛木瓜(みつもりもっこう)
父:朝倉氏景
母:織田孫左衛門の娘
兄弟貞景 景宗
斎藤利国の娘
孝景 景高 景郡 景紀 道郷 景延 大成明玉 朝倉景職室(北殿) 南陽尼寺良玉侍者 土岐頼武室 鞍谷氏室

朝倉貞景とは

由羅
由羅
朝倉義景のお爺ちゃんの代まで来たね!
この貞景の代で、越前朝倉氏はしっかりとした足場固めを行って、次代の最盛期へと繋がることになるの
イリス
イリス
由羅
由羅
ということは、この貞景も色々と活躍したひと?
うん。たくさんしてるよ
イリス
イリス

長享の乱

 1473年(文明5年)に朝倉氏景の嫡子として誕生した。
 しかし1486年(文明18年)に父・氏景が死去。
 貞景はこの時まだ13~4歳という若年であったため、家臣が勝手に行動したりと、混乱があったといわれている。

由羅
由羅
父親である朝倉氏景は、歴代当主の中では比較的早死にだものね……
中には100歳近くも生きた化け物もいるのにね
イリス
イリス
 1487年(長享元年)、長享の乱が勃発。
 これは近江守護であった六角行高に対し、室町幕府が行った新征である。

 このいわゆる第一次六角征伐(鈎の陣)において、室町幕府将軍・足利義尚の命を受けた貞景もまた、六角攻めに出陣した。

由羅
由羅
この時の貞景ってまだ15歳くらいのはずなのに、もうそんなことしてたんだ
 しかし貞景は敦賀にて留まり、敦賀郡司であった朝倉景冬のみを先陣として先行させ、近江坂本に着陣させるに留まったとされている。

 これはかつての主であった斯波氏の斯波義寛が幕府軍の一員としてすでに坂本に着陣しており、家臣であった朝倉氏と同陣することに対して屈辱を覚え、越前国守護職の斯波氏への復職を訴えるという事案が発生したためだったという。

由羅
由羅
また斯波氏の越前国返せってやつだね
 そのため貞景は六角氏に続いて次の標的にされることを警戒して越前国から動かず、景冬を派遣して協調姿勢をみせるに留めたのである。

 また美濃国の守護・土岐成頼もまた朝倉氏と同様に幕府軍を警戒し、美濃にて挙兵して幕府軍に対して迎え撃つ姿勢をみせた。
 
 朝倉・土岐氏がこのように幕府軍の侵攻を危惧した理由としては、応仁の乱の西軍総大将であった足利義視(義政の弟)と義材の父子を美濃にて土岐氏が庇護しており、六角氏征伐後の次の標的は土岐氏であると考えたためだった。

 そして貞景はこの土岐氏において実権を握る重臣・斎藤妙純の娘を正室に迎えており、そのため朝倉氏と土岐氏には斉藤家を介して婚姻関係があったため、斯波氏による訴えとは別に幕府軍の侵攻を警戒する必要があったのである。

 斯波氏の訴えについては、貞景の言い分が通り、朝倉氏は将軍の直臣とされて朝倉氏による越前支配が認められて事無きを得る。

 また六角征伐自体も義尚が1489年(延徳元年)に陣中で死去したことで中断となり、美濃侵攻も発生しなかった。

この頃は、越前国の周囲が騒がしくなっていた頃なの。当然越前国にも影響する可能性があったから、当主である貞景の判断一つでどう転ぶかわからないし、それなりに難しい局面だったと思うよ
イリス
イリス
由羅
由羅
まだ若いのに責任重大だね

延徳の乱

 しかし1491年(延徳3年)になり、新たに室町幕府の将軍となった足利義材は再び六角攻めのために近江へと出陣。
 これが延徳の乱と呼ばれる第二次六角征伐であり、前回同様、再び斯波義寛が訴えを起こすことになる。

由羅
由羅
また訴訟起こしたんだ。懲りないなあ……
でも一時は朝倉征伐の御内書が出されるところまでいったんだから
イリス
イリス
由羅
由羅
え、そうなの?
将軍自らの親征まで噂されたんだけれど、結局は立ち消えになったらしいよ
イリス
イリス
由羅
由羅
どうして?
朝倉氏が有していたとされる1万2000もの軍事力を侮ることができなかった、ともいわれているかな
イリス
イリス

各地での転戦

 1493年(明応2年)に起きた明応の政変においては細川政元に同心して、将軍・義材を捕縛。
 これによって義材は廃位され、小豆島に流罪となる前に京都を脱出し、越中国放生津に下向したという。

 義材が越中公方を樹立すると、貞景は翻ってその元に馳せ参じ、その政権を構成する人員となった。

 また加賀国より一向一揆が甲斐氏の残党と組んで侵攻するも、貞景はこれを撃退して勝利。

 さらには1494(明応4年)に美濃にて起きた船田合戦に斉藤方として参戦し、その決戦では朝倉軍も派遣して大勝するなど、各地で戦果を挙げていくことになる。

由羅
由羅
あちこちで活躍しているよね
 1498年(明応7年)になると、前の将軍であった足利義材が上洛の機会を伺い、越前国の一乗谷へと動座し、越前公方と呼ばれることになった。
 貞景はこれを歓待。
 しかし上洛支援は断り、義材は貞景の力を借りずに上洛軍を派遣するに至る。

 結果としてこの足利義材の上洛は失敗し、貞景は細川政元やこれと同盟関係にあった加賀の本願寺らと対立するようになったのだった。

この辺りが後に一向一揆に狙われる要因の一つになってしまうんだけれどね
イリス
イリス

一族の謀反

 1503年(文亀3年)、一門の朝倉景総は朝倉景豊や朝倉宗滴と共謀し、甥に当たる貞景に対し、謀反を企てる。

 しかし朝倉宗滴の密告により事前に計画は露見し、敦賀郡司であった朝倉景豊の篭る敦賀城に対して貞景は軍をもって包囲。
 景総の軍は近江から越前に向かっていたものの間に合わず、景豊は貞景との合戦の末に自害して果てた。

朝倉景豊の方は方が着いたのだけど、まだ朝倉景総の方が残っていて、外患は続くの
イリス
イリス
 1504年(永正元年)には、いったん美濃、飛騨国を経由して加賀国へと入っていた朝倉景総が加賀一向一揆と協力し、越前に侵攻。
 決戦に及ぶも貞景はこれを返り討ちにし、景総は能登国に逃亡し、朝倉氏一門での内紛に勝利した貞景は、その家督を確実なものとする。
由羅
由羅
貞景って強いよね……

九頭竜川の戦い

 そして1506年(永正3年)には加賀国、越中国、能登国の一向一揆が越前国へと大挙して侵攻。

 世にいう九頭竜川の戦いにて、朝倉宗滴を総大将とした朝倉軍は大勝し、これを駆逐したことで、名実ともに朝倉氏による越前国支配を成し遂げ、戦国大名化を果たしたといえる。

由羅
由羅
貞景自身が強いのに、この頃からは朝倉家の名将である朝倉宗滴もばんばん活躍するようになっていくから、これはもう敵無しだよね
だからこの後の越前国は繁栄し、平和を享受して、栄華を誇っていくことになるんだよ
イリス
イリス
 その後、越前国においては1567年(永禄10年)に起きた堀江景忠の謀反まで、約60年にわたって平和が訪れることになり、全盛期を迎えることになった。

 1512年(永正9年)、貞景は鷹狩りの途中に急死。享年40。

 貞景は父親の急死のため若年でありながら家督を継ぎ、室町将軍の討伐の可能性を回避しながら一向一揆を撃退し、また一族の謀反を収めて越前国の支配を確固たるものにし、その後の全盛期を基礎を作った当主であり、父や祖父に劣らない優秀な人物であったことが伺える。

 家督は嫡男であった宗淳孝景が継ぎ、朝倉氏はまさにその全盛期を迎えることになるのだった。

朝倉家歴代当主

 第1代 朝倉広景 1255年~1352年
 第2代 朝倉高景 1314年~1372年
 第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
 第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
 第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
 第6代 朝倉家景 1402年~1451年
 第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
 第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
 第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
 第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
 第11代 朝倉義景 1533年~1573年

朝倉貞景 関係年表

 1473年 朝倉氏景の嫡男として誕生。
 1486年 父・氏家死去。家督を継ぐ。
 1487年 長享の乱。
 1491年 延徳の乱。
 1493年 明応の政変。
     細川政元に協力し、足利義材を廃位。
     越中公方の構成員になる。
 1494年 船田合戦。斉藤方として参戦。
 1498年 義材、越中より越前に動座。
 1503年 朝倉景豊謀反。
 1504年 朝倉景総(元景)、加賀より来襲。
 1506年 九頭竜川の戦いに大勝。
 1512年 貞景死去。享年40。