朝倉教景 ~永享の乱や結城合戦で戦功を挙げた、朝倉氏第5代当主

朝倉教景 ~永享の乱や結城合戦で戦功を挙げた、朝倉氏第5代当主

 朝倉教景とは室町時代の武将であり、朝倉孝景(英林孝景)の祖父にあたる人物。
 また越前国の守護である斯波氏に仕える一家臣の立場でありながら、関東へとたびたび出兵し、武功を挙げたことでも知れれている。

朝倉教景(あさくら のりかげ)
三盛木瓜
生年1380年(康暦2年/天授6年)
没年1463年(寛正4年7月19日)
改名又太郎または小太郎⇒教景
別名孫右衛門尉
家紋三盛木瓜(みつもりもっこう)
父:朝倉貞景(大心宗忠)
兄弟教景 頼景 他
家景 将景 僧 僧 娘(織田久長室?)

朝倉教景

由羅
由羅
ようやく戦国時代の朝倉氏に近しい人物になってきたよね
教景は下克上により越前国を乗っ取った朝倉孝景の祖父であり、長生きしたこともあって孝景の後見的存在だったの
イリス
イリス
由羅
由羅
この教景自身もけっこう活躍してるんだよね

永享の乱

 1380年(康暦2年/天授6年)に朝倉貞景(大心宗忠)の嫡男として誕生。

 当時の朝倉氏は越前守護であった斯波氏の被官という立場ではあったものの、室町幕府の命を受けて関東方面へと出兵しており、それを率いたのが教景であった。

父である貞景の事跡はほとんど残っていなくてその生涯については不明なことが多いののだけど、その嫡子であった教景は乱の平定において戦功を挙げたことで名が残っているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
やっぱり世の中が乱れた時の方が名前が残るんだね。皮肉といえば、皮肉かな
教景自身が武将として優秀だった、ということもあると思うけれどね
イリス
イリス
 1438年(永享10年)に、永享の乱が勃発。
 これは鎌倉公方であった足利持氏と、関東管領の上杉憲実の対立に端を発したものであり、室町幕府の第6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じ、開始された。

 この時、各地から兵が幕兵として動員されおり、駿河守護であった今川範忠や、甲斐守護の武田信重、そして信濃守護の小笠原政康らと共に、越前国からは守護の斯波氏の代わりに教景が出兵することになる。

由羅
由羅
他の国からは守護大名自身が出張っているのに、越前国からは一家臣である教景が名代として出ているんだよね
 乱は足利持氏の敗北で幕を閉じ、教景も功を挙げることとなった。
 しかし関東での火種は完全に消し去ることはできず、のちの結城合戦に繋がっていくことになる。

結城合戦

 1440年(永享12年)、足利持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁した結城氏朝・持朝父子が、室町幕府に対して反乱を起こした。
 これが結城合戦と呼ばれるものである。

 この乱に際して教景は再び関東に出兵し、春王丸らを生け捕りにするという戦果を挙げたとされている。

由羅
由羅
越前から関東まで派兵って、けっこう大変だよね
そうだね。ちなみに結城合戦でも功を上げて、将軍・足利義教より「教」の字を賜って、「教景」と名乗るようになったといわれているよ
イリス
イリス
由羅
由羅
これはご先祖様の高景氏景と違って眉唾では無かったんだね

朝倉孝景

 教景には嫡子であった家景がいたものの、教景に先立って1451年(宝徳2年)に死去。
 その跡を継いだ孝景(英林孝景)を補佐することになる。

 そして1463年(寛正4年)に死去。享年84。

由羅
由羅
朝倉氏の当主って、地味に長生きのひとが多いよね

教景の名

教景という名前は朝倉氏にとって重要な諱であり、同名の人物を五名はいるよ
イリス
イリス
 ・朝倉教景:朝倉氏第5代当主。本ページにて記載。
 ・朝倉家景:朝倉氏第6代当主。5代目当主である教景の子。
 ・朝倉孝景:朝倉氏第7代当主。朝倉敏景とも、英林孝景とも。6代目当主である教景の子。
 ・朝倉教景:英林孝景の五男。朝倉宗滴の兄。
 ・朝倉宗滴:英林孝景の八男。兄・教景の死後に、教景を名乗る。

朝倉家歴代当主

 第1代 朝倉広景 1255年~1352年
 第2代 朝倉高景 1314年~1372年
 第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
 第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
 第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
 第6代 朝倉家景 1402年~1451年
 第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
 第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
 第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
 第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
 第11代 朝倉義景 1533年~1573年