朝倉広景とは鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。のちに越前の戦国大名となる越前朝倉氏の初代当主。
この越前朝倉氏は最後の当主であった朝倉義景が織田信長によって滅ぼされるまで、11代に渡って続くことになる。
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生年 | 1255年(建長7年) |
没年 | 1352年(正平7年/観応3年) |
別名 | 孫右衛門尉 |
家紋 | 三盛木瓜(みつもりもっこう) |
親 | 朝倉広信 |
子 | 高景 中野愚谷 松尾宗景 |
朝倉広景とは








朝倉氏と但馬国
朝倉広景は1255年(建長7年)に朝倉広信の子として誕生した。
朝倉氏とは、もともと開化天皇もしくは孝徳天皇の末裔と伝わる日下部氏の流れをくむ氏族の一つであったとされている。
その本貫は但馬国養父郡朝倉であり、その但馬朝倉氏より越前に移ったのが、越前朝倉氏であった。


『平家物語』によると、但馬に逃れた平盛嗣の追捕を朝倉高清が命じられたとされているが、そこから数えて8代目に当たるのが、広景であったとしている。


1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏の下に馳せ参じたという。
この時に斯波高経に従って越前に入ったとされている。
尊氏と新田義貞が対立すると、義貞は越前国藤島において戦死。
この新田義貞討伐で戦功を立てたことで、黒丸城を与えられた。








広景は1352年(正平7年/観応3)に死去。
享年98という、大往生だった。
その家督は子の高景が継ぐことになる。
朝倉家歴代当主
第1代 朝倉広景 1255年~1352年
第2代 朝倉高景 1314年~1372年
第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
第6代 朝倉家景 1402年~1451年
第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
第11代 朝倉義景 1533年~1573年