朝倉広景 ~越前朝倉氏初代当主

朝倉広景 ~越前朝倉氏初代当主

 朝倉広景とは鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。のちに越前の戦国大名となる越前朝倉氏の初代当主。
 この越前朝倉氏は最後の当主であった朝倉義景織田信長によって滅ぼされるまで、11代に渡って続くことになる。

朝倉広景(あさくら ひろかげ)
三盛木瓜
生年1255年(建長7年)
没年1352年(正平7年/観応3年)
別名孫右衛門尉
家紋三盛木瓜(みつもりもっこう)
朝倉広信
高景 中野愚谷 松尾宗景

朝倉広景とは

由羅
由羅
えっと、ここまでくるともはや戦国時代じゃないような……
室町時代ですらないものね
イリス
イリス
由羅
由羅
鎌倉時代だとか、南北朝時代だとか、ちょっとわかんないよう
だからこの記事で解説するの
イリス
イリス

朝倉氏と但馬国

 朝倉広景は1255年(建長7年)に朝倉広信の子として誕生した。

 朝倉氏とは、もともと開化天皇もしくは孝徳天皇の末裔と伝わる日下部氏の流れをくむ氏族の一つであったとされている。
 その本貫は但馬国養父郡朝倉であり、その但馬朝倉氏より越前に移ったのが、越前朝倉氏であった。

由羅
由羅
越前で繁栄した朝倉氏は、元々は但馬国の出身だった、というわけね
 『平家物語』によると、但馬に逃れた平盛嗣の追捕を朝倉高清が命じられたとされているが、そこから数えて8代目に当たるのが、広景であったとしている。
由羅
由羅
越前朝倉氏の初代は広景だけど、朝倉氏自体はもっともっと遡れるのね……
 1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏の下に馳せ参じたという。
 この時に斯波高経に従って越前に入ったとされている。

 尊氏と新田義貞が対立すると、義貞は越前国藤島において戦死。
 この新田義貞討伐で戦功を立てたことで、黒丸城を与えられた。

由羅
由羅
新田義貞とか、足利尊氏とかの時代のひとなんだね。この二人は有名だから知ってるよ♪
以後、広景は黒丸に移住したらしいよ。この地に住んだことで、広景は黒丸右衛門入道と号して、安居に弘祥寺を建立したりしているの。また北庄神明神社の社殿を再興したりもしたんだって
イリス
イリス
由羅
由羅
この広景の時より朝倉氏は斯波氏の家臣として越前に根を下ろすことになって、ここから越前朝倉氏が始まったから、その初代当主とされているわけかあ
そういうこと
イリス
イリス
 広景は1352年(正平7年/観応3)に死去。
 享年98という、大往生だった。
 その家督は子の高景が継ぐことになる。

朝倉家歴代当主

 第1代 朝倉広景 1255年~1352年
 第2代 朝倉高景 1314年~1372年
 第3代 朝倉氏景(大功宗勲) 1339年~1405年
 第4代 朝倉貞景(大心宗忠) 1358年~1436年
 第5代 朝倉教景(心月宗覚) 1380年~1463年
 第6代 朝倉家景 1402年~1451年
 第7代 朝倉孝景(英林孝景) 1428年~1481年
 第8代 朝倉氏景 1449年~1486年
 第9代 朝倉貞景 1473年~1512年
 第10代 朝倉孝景 1493年~1548年
 第11代 朝倉義景 1533年~1573年